とりあえず、思ったことずらーっと書きます。本当に伝えたいことを本音で書きたいので、あえて匿名で投稿します。
- 仕事を完璧にわかってやっている人などめったにいないこと。
- 世の中には自立した大人はあまりにも少なく、大きな子供が成人人口の大半をしめること。
- 精神的に未熟な大人の総意は度々愚かな考えであるからして、民主主義は理想の社会を築くのに効果的でないこと。故に、民主主義は全国民の妥協の上に成り立つ
- 選挙の本質は人気投票であり、正しさとは相関がかなり低いこと。
- ものは心を満たさないこと。
- 一方、金は心にゆとりをもたらすこと。
- 本当に心を満足させるのは大好きな人からのハグやキスであること。
- 他人の目を気にして生きることは愚かである。だって関係ないもの。
- やった後悔とやらなかった後悔。どちらも気持ち悪いが、後者は一生つきまとう。
- 今も昔もこれからも、行動しない人はただの豚である。
- 年齢とはただの数字である。年齢を言い訳にしてはいけない。
- 究極的に人間は孤独であり、故にわかり会える友人は貴重である。
- 重要なので2回言う。人間は孤独である。結局は一個人で死ぬ。
- 神は存在しない。
- 自由意志も存在しない。
- 人生は無意味である。
- 14–16に絶望したとしたら、君はまだうぶである。もしくは近代人ではない。
- 世界に意味はない。そんなことに関係なく、世界は美しい。
- 相手に怒るときは相手が学べる様に怒らなければいけない。自分の気を晴らす為に怒るのなら、あなたは豚だ。
- 強いから勝ったのではない。定義として、勝ったものが強いのだ。同様に、弱いから負けたのではない。負けたから弱いのだ。
- 子供のときは夢を持とう。夢に少しずつ近付こう。
- 成長に従って、どこかで夢を目標に変えなければいけない。
- 自分の食べたものと飲んだものが肉体になる。
- 自分が触ったこと、見たこと、聞いたこと、学んだことがあなたの精神、すなわちあなた自身になる。
- だから、あなたの5割以上はあなたの環境によって決定づけられる。
- よって、あなたの目標となる人が周りにいることが大切だ。あなたよりもスキルが上の人、あなたよりも徳が高い人を周りに置けるようにしよう。自ずとあなたは成長する。
- 自分より能力や徳が低い人といるとあなたの能力も徳も劣化する。
- 必死で努力する人を笑う人間は豚だ。相手にするな。
- 確かに、あなたがつるむべきではない人間は多く存在する。しかし、彼らを見下してはいけない。彼らもまたあなたと同様、この世界に生を突然与えられたのだから。
- 実力の伴わない権威など嘲笑の対象である。
- 世界は嘘ばかりである。自分が信ずるに値するかどうかを判断するために考えるんだ。批判的に。そして建設的に。
- わからなかったら恐れずに「わかりません」と言おう!わからないことを隠していることはとても恥ずべきことだ!
- 慈愛の心のみが世界を愛で満たすことができる。
- 好奇心のみが世界を前進させることができる。
- 34の観点で言えば、人間が人生の間にすべきことは芸術と科学だけだ。その他は生殖と後進の教育を除けば生命維持の雑務に費やすだけだ。それ以外にすることは人間を堕落させる。戦争はその最たるものである。
- 過去は私達に生きる術を示している。歴史に学べ。私達はそれを怠るが故に、同じ過ちを繰り返し続けている。
- 無条件の愛には期待するべきではない。それがあなたにできるのは古代の人間が創り出した神という空想の産物だけである。
- 恋と愛の最大の違いは能動性にある。前者は受動的な態度を、後者は能動的な態度を伴う。つまり、誰かを愛するには行動が伴わなければならない。
- 計画を立てる真の目的は現実と理想の乖離を測る事である。したがって、計画通りにものが進むことなど滅多にない。よって、計画通りにことが進まないことに気を病むのは本質を突いていない。計画通りでないのなら、闇雲に気を病むより修正しよう。
■番外編
キリスト教の黄金律:
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」
孔子の教え:
「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」
この二つの教えは似ているが同意ではない。対称性を重視して書き換えると、ある行動Aについて、
キリスト教:自分が人にしてもらいたい ならば 他人にも実践しなさい。
孔子:自分が人にしてもらいたくない ならば 他人にも実践してはいけない。
日本社会はまさしく孔子の教え通りですね。どちらもいい黄金律ですが、違いがある事を認識していただきたいと思います。違いを認識すれば、状況によってどちらの黄金律に沿った行動を取ろうかと頭の中で考えることができます。(ちなみに、こういった事をメタ認知できると、日常生活で思惟に幅が出てきます)
38に倣えば、人を愛するには行動を伴うので、キリスト教の黄金律がより適しているように思えます。相手に迷惑だからと行動を思いとどまってしまうのはとても孔子的です。一方、キリスト教の黄金律を実践していくと、時折他者に迷惑がかかるのは当たり前なので、孔子的な考えをする人よりもそうしたことで気に病むことが少なくなります。