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『考える技法』を学ぶ上で大切なこと

デジタル人材と言ったって、製造とデジタルにかかわる局面に限っても、カバーすべき知識範囲は非常に広い。だから、その全体を教えることなど不可能に近い。ただし幸いにも、日本の製造業に携わる人達は、今も概ね、優秀だ。そういう人たちにとって大事なのは、方法を学ぶことで、個別の知識を覚えることではない。

そこで全体の見取り図だけを示して、あとは受講者が自分の頭で考え、必要な知識の水源には、自分の力で到達できるようにすべきだと思った。だが、日本の教育の文脈の中で、こんなふうに考える人間は、どうやら少数派らしい。

では、多数派の人は、「学び」や「教え」を、どう捉えているのか。それは、大学の教養課程での授業を思い出してみれば分かる。学生は大教室に集められ、先生方の講義を聞かされる。とても一方的な、知識伝達である。

先生は最後に試験をして、理解度を評価する。そして採点し、成績簿で通知する。そしてこれが「教育」の姿だと思われている。

知識と言うのはある意味、結果である。考えると言う探求行為がたどり着いた結果である。大学の講義が一方的な知識の伝達に終始している事は、一番肝心な考えるというプロセスについては、教える気がないことを意味している。

それどころかもしかすると、大学の先生たちは、考えるというプロセスを言語化し、あるいはモデル化して、意識に全景化することをすら、怠ってきたのかもしれない。自分たちは教えられずとも、無意識に、上手にできている。それは自分達に素質があるからだ。だから教育とは、素質のある学生を、試験を通じて拾い出すことに他ならない、と。

インプット学習とは、知識情報の取得である。これに対して、アウトプット学習とは、自分が得た知識、情報材料にして、自分の頭で考え、自分で論理を組み立て、自分で言語化することを練習する過程だ。学生は、最後に、卒業制作なり、卒業論文なりを作ることを求められる。そこには特段の正解は無い。これがアウトプット学習である。

アウトプット学習には、自分の頭で考え、他者と議論すると言うプロセスが不可欠だ。それによって初めて、取得した知識、情報を、多少なりとも、自分の血肉にする事ができるのである。教育には、あるいは人財の育成には、インプット学習とアウトプット学習の組み合わせが必須である。そして順番は、この順序でしかできない。