■ 1. 『自由論』の概要と現代的視点
- 『自由論』の主題: 哲学者ジョン・スチュアート・ミルによる1859年の著書であり、個人の自由に対する社会のあり方について論じている。個人の選択の自由ではなく、社会全体が個人の自由をどのように扱うべきかという点が主題である。
- 現代社会との関連性: 現代は「総監視社会」であり、SNSなどを通じて発信される意見が多数派の倫理や道徳によって厳しく審査される。ミルが指摘した「民主主義に潜む専制」は、まさに現代のSNS社会に当てはまる問題である。
- 質的功利主義と多数派の専制:
- 量的功利主義への批判: ベンサムの「最大多数の最大幸福」を追求する量的功利主義は、多数派の幸福のために少数派の自由が奪われる可能性がある。例えば、当時のキリスト教徒が多数派であった社会では、無神論者の発言権が認められなかった。
- 質の概念: ミルは、快楽や苦痛には「質」があり、単純な量で測るべきではないと主張する質的功利主義を提唱した。
- 民主主義の危険性: 民主主義は専制政治を避けるための理想的な政治体制だが、ミルは「多数派の専制」が潜んでいると指摘する。多数派の道徳や常識が、あたかも絶対的なルールのように少数派の意見を抑圧する傾向がある。これは、現代のSNSで昭和的な価値観が非難され、発信者が自主的に意見を抑制する状況と一致する。
■ 2. 自由を保障する「絶対原則」と3つの自由
- 危害の原理: ミルは、個人の自由への干渉が正当化される唯一の理由は「自衛」であると主張する。他者に危害を加えない限り、全ての行動は自由であるとする、危害の原理を提唱した。
- 危害の定義: 危害とは、受動的ではなく能動的に、直接的に、そして不可避的に与えられる被害を指す。
- 3つの自由と危害の原則:
- 1. 思想・表現の自由: 意見や感情を表現する自由。SNSでの発信を不快に感じても、それが誰かに強制されたものでなければ、危害には該当しない。個人の投稿を閲覧するかどうかは個人の選択であり、不快感を理由に道徳的な干渉を行う権利は誰にもない。
- 2. 思考と目的追求の自由: 自分の趣味や生活方針を自由に決めること。他者の生活に不可避な被害(例:近隣住民のゴミの悪臭)を与えない限り、個人の領域における行動は自由である。ミルは、人にだらしない行いや愚かな行いをする自由も存在するとし、これを「愚行権」と呼んだ。
- 3. 団結の自由: 他者に危害を与えなければ、どのような目的で団結してもよい。
■ 3. 言論の重要性
- 健全な議論の促進: ミルは、自由の絶対原則を主張する目的は、個人の自由を守ることだけでなく、言論を活性化させ、社会全体の利益につなげることにあると考える。
- 避難と反論の違い: 倫理や道徳を盾にした他者への「非難」は好ましくないが、論理に基づいた「反論」や「指摘」は健全な言論であり、社会に不可欠である。
- 意見の規制が招く弊害:
- 正しい意見が排除される可能性: 多数派の意見が正しいと盲信する「無謬性の仮定」により、少数派の正しい意見が排除され、人類全体が被害を受ける可能性がある。
- ドグマ(お題目)化: 正しい意見であっても、十分に議論されなければその本質が失われ、理由を伴わない「ドグマ」に成り下がる。社会が危機に瀕した際に、簡単に捨て去られてしまう危険性がある。
- 真理の追求の妨げ: ほとんどの意見には部分的な真理が含まれている(ハーフ・トゥルース)。言論が統制されると、意見の調整や思考錯誤が妨げられ、真理の追求がおろそかになり、人類の発展が停滞する。
■ 4. 結論
- 現代への示唆: ミルの『自由論』は、個人に危害が及ばない限り、他者の思想や発言に過剰な干渉をすべきではないという考え方を提示している。
- 自分自身の平穏のために: この思想は、他者や社会を変えることは難しくても、個々人が穏やかな生活を送るための価値観となり得る。自らがこの思想を実践し、他者の発言に過剰に不快感を覚えないようにすることで、より平和な日常を送ることができる。
- 少数派の存在: 正しい意見も間違った意見も、すべて社会には必要である。
- 最後の敵: 私たちが真の自由へ辿り着くための最後の敵は、自分自身である。