「なぜ環境保護は大切なの?」って疑問に、倫理観や道徳に訴える回答をするのは非科学的で好きじゃない。この話題でいつも思い出すのは、(通信販売じゃないほうの)アマゾンでウレタンを分解するキノコが発見されたってニュース。18世紀には何の役にも立たないキノコだった。
ポリウレタンを分解できる微生物は、その後、世界中のゴミ捨て場で発見されるのだけど……それはまた別のお話。
重要な点は二つ。この世界には、思いもよらない「役に立つ生物」がたくさんいるってこと。そして、23世紀に役立つ生物を、21世紀の現時点では予測できないってこと。
1種のキノコを守るためには、そのキノコが棲息する環境を丸ごと保護する必要がある。一つの森の中で食物連鎖がどういう風に絡まり合っているのか、すべて解明するのは現実的には不可能だからだ。1種の昆虫が滅んだら受粉できなくなった別の木が滅び、その枯れ木に生えるキノコも滅ぶかもしれない。
もしかしたら、ステラーカイギュウの脂肪から素晴らしい抗癌剤を発明できたかもしれない。リョコウバトから、鶏肉の生産効率を数倍にする遺伝子を発見できたかもしれない。フクロオオカミの血から減量薬を作れたかもしれない。
でも、現在では確かめようがない。彼らはもう地球上に存在しないからだ。
生物とは生きた情報記録媒体であり、彼らの体内には私たちの生活を豊かにする遺伝情報が――膨大な情報が――眠っている。環境破壊とは「役に立つ情報があるかどうか」を調べもせずに、ハードディスクドライブを叩き割るようなものだ。
ペニシリンが発見される以前の世界で、果物に生えたアオカビを指さして「これが将来、人類の命を救う」と訴えても、周囲の人々からは気の狂ったバカだと笑われただろう。「未来は予測できない」とは、そういう意味だ。大抵の人は、今と同じ暮らしが何百年、何千年も続くと信じて生きている。
一万年ちょっと前、私たちの暮らす集落の近くに変わったオオカミが現れるようになった。ヒトをあまり恐れず、ヒトの出す残飯をあさる汚いオオカミだ。
私たちの中でも変わり者の誰かが、それに餌を与え、飼育するようになった。おそらく周囲の人々は「そんな動物が何の役に立つ?」と笑っただろう。
私たちがイヌやネコと生活できるのは、その祖先が絶滅していなかったからだ。私たちが絹の衣服を着れるのは、私たちが蜂蜜を味わえるのは、私たちが牛肉や鶏肉、豚肉に舌鼓を打てるのは、その祖先が絶滅していなかったからだ。このリストは、どこまでも長く続く。
生物は生きた情報保存媒体であり、自然環境は有用な情報の眠る鉱脈のようなものだ。じつのところ、この情報を丸ごと保存するのにもっとも安上がりな方法が、自然環境を保護することだ。生物を一種ずつ単離して、飼育して、冷凍保存するよりも、自然をそのまま保護するほうが安い。
たとえば何の変哲もない池にも、数百~数千種類の動植物が生息している。微生物まで入れれば数万~数十万という桁になる。それら一種ずつを水槽やシャーレに移して飼育するのと、池を一つ丸ごと保全するのとを比較して欲しい。誰が飼育するのか?一体どこで?まず間違いなく、前者のほうが高くつく。
人類が養蚕を始めたのは5000年ほど前だという。蚕の祖先と出会う以前の人類は「絹の服」など想像できなかったはずだ。繊維業が20世紀の日本の経済発展を助け、先進国の仲間入りを果たす原動力になることなど、5000年前の人々には絶対に想像できなかった。
でもまあ、「将来世代のために生物多様性という遺伝情報の資産を残しましょう」という発想も〝倫理観〟の一つではないか?というツッコミは正しい。「将来のことなど知らない、私は今が良ければそれでいい」という倫理観の持ち主もいるからだ。とはいえ、
「固有種が可哀想だから」とか「人類の罪を償いましょう」とか、そういう倫理観に訴える議論よりは、同意を得やすいのではないか。自分の子供や孫、甥や姪の姿を思い浮かべたときに「彼らの未来のためになることをしたい」と考える人のほうが、きっと多いはずだ。(※包括適応度から言って)
俺の過去作『女騎士、経理になる。』の中で「正しい帳簿さえあれば、世界だって救ってみせる」という決め台詞がある。俺はわりと本気でこの台詞を書いている。環境破壊が進む原因の一つは、将来のコストを正しく見積もることができず、引当金を積むこともできないという点にある(と俺は思う)。
環境破壊にせよ、戦争にせよ、それによって生じるコストを正しく計算できれば――そして、コストを負うべき者がきちんと負えば――確実に減る。たとえ根絶は無理だとしても、大幅に減る。正しい帳簿さえあれば、世界は救える。
ただし問題は、「正しい帳簿」という理想があまりにも高いということ。