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インターネット番組「ポリタスTV」の出演休止/降板について

降板の理由は番組内容とは関係なく、インターネット番組が抱えてしまう、視聴者との「密接さ」の側にあります。それも大半の視聴者の方とは全く関係なく、ごく一部の「密接過ぎる」人々への対応に疲れてしまったということに尽きると思います。

インターネット番組は、リアルタイムチャットなどを通じて視聴者と出演者が密接にコミュニケートできる空間で、番組外では出演者にSNSを通じてアクセスできる場合も少なくなりません。視聴者の方は基本的には好意的な方が多く、SNSをフォローして頂くこと、コメントやメッセージを頂くこともよくありました。

一つは「意見」について。これはインターネット報道番組が特に特定の政治的立場に属している視聴者の方々に好まれているという特性と大きく関わるものですが、例えば、私と共演した方が「うなぎを食べに行って……」という話をされたときに「うなぎ食べるんだ……」というコメントをされたり、ペットボトルのお水を飲んでいると「ペットボトルのお水はちょっと」と意見をいただく、ある識者の方の意見を紹介すると「あの人に同意するなんてがっかり」といったものです。

SNS上で番組自体に意見が寄せられることも少なくなく、例えばゲストの男女比を半々にしているというならそれを誰にでもわかるところに明示して欲しいというもの、このゲストを出演させないでほしいというものなど様々でした。

ただ、そこまで瞬時に大勢の人からさまざまな角度での清廉潔白性、首尾一貫性を要求されることに疲れてしまったというのは、隠しようもない事実です。そういう清廉潔白性や首尾一貫性を保持できればできるほど「信頼できる人」「信頼できる番組」として見なされていくようなところもありますが、「この人が言っているから信頼できる」「この人が言っているなら信頼できない」という「言う人」ありきの認知が強化される空間にいることは、あまり個人的に歓迎できない事態でした。実際、多くの人は私の本や論文というよりは、もっぱら私のパーソナリティーに関心を持っていたように思いますし、事実そうした応援のメッセージも多く頂きました。

二つは「好意」「共感」についてです。少し上で書いたことと重複してしまうのですが、一部の視聴者の方は、私の意見や考えに対してだけ好意を持つのではなく、楽しそうに津田さんとおしゃべりするところを好ましく感じて下さっているようでした。それは嬉しいことなのですが、一方でやや無邪気に押し付けられる共感、好意を重荷に感じたこともありました。

好意を抱いていただけることは嬉しいですし、面識のない人からポジティブに思われるのは誰しもが経験できるわけではないという意味で、幸運なことだとも思います。ただ、人間のある面を単純化して形成した像を本人に投影してしまう、その宛先が自分であることに、やはり疲れてしまいました。

顔出しで物事を語る以上、ある程度の首尾一貫性は求められるものではあるが。

まぁ、めんどうくさいというのはあるだろうな。