/note/social

北村紗衣さんのツイートに対する読解と批評

草津町長の公式声明が出された後にTwitter上で北村紗衣さんが表明した、一連のツイートについて、読解とそれに基づく批評を試みたいと思う。

まず一連のツイートから、北村さんの言いたいことの骨子をまとめると、概ね次のようになる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(1) 私(北村紗衣さん)は、わずか1回しか、草津町長及び町民への誹謗中傷は行なっていない。

(2) わずか1回なので、草津町長や町民から告訴される可能性は、極めて低い。

(3) 私(北村紗衣さん)が告訴される可能性や処罰される可能性は、極めて低い。それにも関わらず、私(北村紗衣さん)は自発的に謝罪した。これは、私(北村紗衣さん)の良心の顕れである。

(4) つまり、私(北村紗衣さん)は、良心的な人間である。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

一読して最初に感じるのは、北村紗衣さんは、読者に向けて「誹謗中傷の回数の少なさ」と「告訴される可能性の低さ」を強調したいのだろうという印象である。

まず(1)についてである。法廷において弁護士側・被告人側が行なう法廷戦術として展開する弁論だったならば、然程おかしくはない。しかし、法廷外で被害者に向けて謝罪する場面での言葉として見たら、どうだろうか。加害者にほかならない北村紗衣さん自身が「犯罪と見做されかねない行為の回数の少なさ」を強調する姿を見て、被害者である草津町長や町民は「北村さんは真摯な人だなあ」と思ってくれるのだろうか。むしろ、逆に「一見すると、この人は謝罪しているように見せているが、実際は自分がしたことを矮小化しようとするのに懸命だなあ」と解釈しないのだろうか。

時々、他人に損害を与えた側の人間が、損害を被った側の人間に対して「たかが✕✕ぐらいで」などと言って、不必要な怒りを買うという場面に出くわすことがある。それと同じ誤ちを、現在の北村紗衣さんも犯してはいないだろうか。

次に(2)であるが、これも(1)と同様である。草津町長や町民は、むしろ「なるほど、告訴されないラインを見極めてから、誹謗中傷を行なっていたんだな。狡猾だな」と解釈しないのだろうか。

ハッキリ言えば、今回の北村紗衣さんが草津町長及び町民に対して行なったことは、関東大震災の時に「在日朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」という流言蜚語に乗って、在日朝鮮人を私刑に掛けようとした暴徒と同レベルである。私刑が初期段階でストップしたから、草津町長が無実の罪で刑務所に送られずに済んだという、本当に不幸中の幸いだったというだけのことである。被害者たちからすれば堪った話ではない。

では、その暴徒が「リンチに掛けようとしたのは、たったの一回だけ」「未遂で済んで実害は無かったのだから、重い罪にはならない」「自分は暴徒の群れの中にいた一人に過ぎない」と言ったとしたら、あなたはそれを見て「この人は誠実な人、良心的な人だなあ」と思うだろうか。そういうことである。

続いて(3)である。北村紗衣さんは「私は既に謝罪した」と主張するのであるが、北村さんの一連のツイートを追ってみたのだが、草津町長及び町民に宛てた『謝罪文』らしきものは見当たらない。小説や映画のDVDで前の頁やチャプターに遡って、伏線を見落としてはいないかと確認するように、北村紗衣さんの一連のツイートを確認したのだが見当たらない。これはイーロン・マスクに掻き回されたことによる、Twitterの不具合なのだろうか。

或いは、北村紗衣さんは「謝罪したいと思います」という言葉が、謝罪に該当するのだと主張するかもしれない。しかし「ご飯を食べたいと思います」と言うことと、実際にご飯を食べることは、やはり別の話であると私は思うのである。私がどう思おうが関係は無いと、北村紗衣さんは言うかもしれない。

では例えば、北村紗衣さんを呉座勇一と比較したら、どうだろうか。

呉座勇一が北村紗衣さんに宛てて記し、pdf文書として公に発表した謝罪文のような、誰に対して、何について謝罪するのか、再発防止のためにどのような取り組みをするのか等を明記したものは、現在のところ見当たらない。これは私が見落としただけなのであろうか。本当に北村紗衣さんは、草津町長及び町民に向けた明確な謝罪文を発表したのだろうか。これは、事実についての確認である。

呉座勇一という謝罪と処罰の実例が存在する以上、北村紗衣さんの謝罪が比較対象として俎上に載せられるのは、至極当然であると言える。

もしも、既に北村紗衣さんが、呉座勇一と同レベルの、草津町長及び町民に対する謝罪声明文を出しているのであれば、それを固定ツイートとして最上段に持ってきて、必ず閲覧者の目に留まるようにした方が無難であろう。謝罪する羽目になったことを、北村紗衣さんが大衆の記憶に残したくない、連続ツイートの波によって押し流してしまいたいというのであれば話は別であるが、真逆そんなことは無いだろう。

さらに言えば、北村紗衣さんは「告訴を受ける可能性、処罰を受ける可能性が低いのにも関わらず、自発的に謝罪したのだから、私が良心的な人間であることを他者に示すことが出来た」と考えているようであるが、果たして草津町長及び町民が、北村さんの望み通りの解釈や反応を示してくれるだろうか。

北村紗衣さんは「私が告訴や処罰の対象となる可能性は、極めて低い」とアピールすることで、草津町長及び町民に「なるほど。処罰される心配や責任を取る心配が無いと見越したからこそ、安心して謝罪のポーズを取ったのか」と解釈されるという可能性には、思い至らなかったのだろうか。

最後に(4)である。北村紗衣さんが「私は良心的な人間です」と草津町長及び町民に対してアピールすることは、これは北村さんの自由である。しかし、そのアピールの内容に説得力があるか否か、それを草津町長及び町民に信じさせることが出来るか否かは、また別の問題である。他者が北村紗衣さんの言葉をどのように解釈するか、彼らの内心を強制することは出来ない。

既に述べたとおり(1)〜(3)の主張は、北村紗衣さんが草津町長及び町民に大きな誤解をされかねない要素を多分に含んでいる。北村紗衣さんのことを誤解したままで「私(北村紗衣さん)は良心的な人間です」と言われても、草津町長及び町民の目から見れば、余り説得力を持たないのではないだろうか。

文学研究の専門家に対して、このようなことを言うのは釈迦に説法であり、忸怩たる思いがあるのだが、(1)〜(3)のように読者が芳しくない印象を抱くであろう文章を公表するというのは、それが本来の意図した効果ではない限りは、北村紗衣さんの学術的能力にも疑問符が付けられることになりかねないのではないだろうか。北村紗衣さんのように、誠実で、良心的で、学術的能力に恵まれた人間が、不必要に誤解されること、不当な低評価を受けることは、学術界のみならず社会にとっても大きな損失である。

北村紗衣さんは、ご自身の意図や目的に沿うように文章を十分に推敲して、練り直してから発表した方が良いのではないだろうか。

文学作品や映画作品に明るく、それらについての読解及び批評の専門家であるのだから、北村紗衣さんは「もしも、彼女(北村紗衣さん自身)がフィクション作品の登場人物だったとしたら」と、少しだけ考えてみてもらいたい。北村紗衣さんが批評家や文芸編集者の立場だったとして、作家が「真摯に反省して謝罪している、良心的な人間の姿を描いた」として、上の(1)〜(4)のような描写の為された原稿を提出してきたら「作家が意図した効果は出ていない」と評するのではないだろうか。

もしもこれがフィクション作品であり、北村紗衣さんが登場人物であるのならば、一人の読者としての私は(1)〜(4)の描写に基づいて「表面的には反省や謝罪の言葉を述べているものの、罪に対する罰や責任からは逃れようとしている人物を描いている。それによって作者は、人間のエゴイズムや弱さや愚かさを描こうとしているのであろう」という感想を抱くと思う。それは果たして、作者である北村紗衣さんが意図した効果を生んでいると言えるのだろうか。

このような感想を抱くのは「告訴やそれに伴う法的な処罰の対象となる可能性が低い」ことを、結局のところ、北村紗衣さんは喜んでいるのか、それとも申し訳なく思っているのか、あるいは他の思いを抱いているのか、その点についての描写が不明確だからである。

例えば「司法機関に『私を処罰して下さい』と申請したのだが『法的な要件を満たさないので、処罰はできない』と回答を受けた。罪が重いのに罰を受けないままでは、あまりにも心苦しい。だから、せめて草津町長及び町民の前で謝罪させてもらう機会を与えて欲しい」とか「私が懇意にしているマスメディア関係者に働きかけて、草津町に関する訂正報道や謝罪文が掲載されるように協力してもらう」とか「呉座勇一と同様に職を去る」とか、そういった具体的な描写が無さすぎる。これでは「この登場人物は、本当は良心的な人間であり、真摯に反省しているのだ」と、読者は思わないのではないか。

北村紗衣さんのしたことに見合う罰がどのようなものかは、私には分からないし、私には北村さんを罰する権限も資格も無い。だから私は、北村紗衣さんを罰するつもりは毛頭無い。しかし人間は、己の行動を罪深いと本心から思っている時には、他人からの処罰を受けるか否かには関わりなく、自らで自らを罰したり、償いのための行動を自らに課したりすることが出来る生き物である。だからこそ、優れた文学その他の芸術は、自らの罪と真摯に向き合う人間たちを描いてきたし、北村紗衣さんもそのような作品を愛してきたのではないか。

そのような文学その他の芸術に登場する真摯な人たちと比べて、北村紗衣さんは自分自身のことを、どう思うのか。

或いは、私の解読や批評など取り合う必要も価値も無いと、北村紗衣さんは判断するかもしれない。実際、Twitter上で北村紗衣さんは、草津町長及び町民に対する誹謗中傷について北村さんのことを批判する人間に対して「あなたに自分のことをどう思われようが構わない」という主旨の発言を、今日現在でも繰り返している。しかし、無関係な人間は口出しをするなと言うのであれば、そもそも草津町に縁もゆかりも無い北村紗衣さんが介入したことを、どのように説明し、正当化するつもりなのか。英米文学に明るい北村紗衣さんならば、ジョン・ダンの「なんびとも一島嶼にてはあらず」という言葉を知っているはずである。あなたや我々は、一島嶼なのか、大陸の一部なのか。

そもそも、北村紗衣さんが「あなたは草津町に関係ない」と言った相手は、本当に無関係なのか。Twitterで「あなたにどう思われようが関係ない」と北村紗衣さんが言った相手が、もしかしたら、実は草津町民であった。そのような可能性を、北村紗衣さんは全く考えなかったのだろうか。この文章を書いているのも、草津町民なのではないか。そんな可能性は無いのか。

北村紗衣さんが本当に反省しているのか否か、嘘偽りのない北村紗衣さんの実際の姿を、自分の目で見極めるために、敢えて彼らは、草津町民であることを明かさなかっただけかもしれない。そのような想像力を働かせることこそが、文学によって培われる能力なのではないだろうか。北村紗衣さんは、文学研究を通じて、そのような能力を培おうとはしなかったのだろうか。

もしも、北村紗衣さんが愛した文学作品や芸術作品が、北村さんの中にそのような想像力を少しも育まなかったのだとしたら、これほど悲しいことはあるまい。そのような悲しいことが無いことを、私は願っている。