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↓前も引用したんですが、「コミュニケーション能力によってスクールカーストが決まると思われがちだが...

↓前も引用したんですが、「コミュニケーション能力によってスクールカーストが決まると思われがちだが、実際はカーストの上にいる生徒だけが意見を押し通すことを許容されてて、それを人々がコミュ力と勘違いしてきた」という説もあるワケですよ。この手の話はこのヘンも関係してるんじゃないかと思う

@madanaizo

「コミュニケーションの”構築”より”遮断”の方が自らの生存のために有利、という感覚の蓄積」の中には、どっかで「あ、コミュニケーションって、実は強者にしか許されてないものなんだ」という気付きがあると思うんですよね。そういうあり方自体に対する「NO」みたいな気持ちが、案外あんじゃないかと

@madanaizo

「お前がコミュニケーションを云々言うのは、お前が既に強者だからだ」みたいな感覚はあんじゃないか知らん。で、それは…若干次元が変わるけど…前話題になった「いざ自分一人で何かを語れ、となった時に、何も語るべき話題や内面を持ち合わせていない人は多い」という話ともどっかで繋がってると思う

@madanaizo

「今は自分が賢くなる努力をするより、全員が程度の差こそあれ「バカ」であることを証明した方が「効率的に」利益が得られる時代なんだろう」とは思う。思うが、それは別に若者に限ったことじゃない。SNSにいる中年達を見ればわかるじゃないか。彼らは年々悪口と、足の引っ張り方だけ上手くなっていく

@madanaizo

どうもうまくまとまらんな。

でもどうも俺はこの手の話を聞くと、毎回「本当は立方体であるものを平面と勘違いして、「これはいい これはケシカラン」と言ってるだけなじゃないか」という感覚が消えんよ。ホント。

@madanaizo

発言者の力関係や立ち位置がその場のコミュニケーションの勾配を作るのは常識的な話である。

強者は雑なコミュニケーションでも忖度してもらえるし、弱者は最初から話を聞いてもらえない(強者はその強権で話を通せばいいし、弱者は殺せばよいだけなので)。

しかし、人類が農耕を始め、血縁関係で構成された部族以上の国家や社会を作り始めた時、それでは色々まずいということでコミュニケーション、つまり論理が重要視されるようになった。

要は戦士・兵士と文官・官僚が渡り合う為のツールとして論理やコミュニケーションは作られたので、最初から陽キャ(武闘派・暴力的・抑圧的)と陰キャ(知性派・融和派・共栄派)の確執的なルーツを持つという事である。