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リベラルに心が折れた

リベラルって一言でいう自称もどうかと思うが、とにかく社会的な構造から見ていく、差別を許さない、そういう意見に共感して今までやってきた。

労働環境や非正規雇用問題などもっと各論に立ち入ってほしいと思うこともあったけど、総論として扱われる反原発とかにもなるべく理解を示してきたつもりだった。

今、世間では坂本龍一が亡くなって氏の芸術や経歴についていろいろ語られている。その裏の全く関係ないところで、私のリベラルに対する期待が、折れた。

https://twitter.com/kawai_kanyu/status/1642718374965968896

私もuber配達員をやっている。非正規だけでは稼げず一年半ぐらい前から。もう1500配達くらいになる。uber配達員にはさまざまな背景がある。uber配達員をやるネトウヨ もいるだろう。だがこの言い草はなんだろうか。まるでuberで働くことが何かの罰や、レッテルに値するような言動。「これはネトウヨ に対する批判であってuberは関係ない、些細な巻き添え」みたいな擁護がありそうだが、そんなものには思えない。

この2、3年、ツイッター 上のリベラルの言動に疑問を持つことが増えていた。それは別に理想と現実のすれ違いとかそんなものではない。明らかに、リベラル側も社会の底辺や地方の人間に露骨な偏見を抱いていて、それを隠そうともしなくなってきていたのだと思う。そんな言動が、目に余ってきていた。

この手の人たちをなんと名づけるべきだろうか。

「冷笑左翼・リベラル」?いや、曲がってもこんな人々を左翼やリベラルと呼ぶべきではないだろう。共産党や社民党の大会でこんなことを言う人がいればそれこそ除名されるだろう。

しかしこの手の人々が、堂々とリベラルとして振る舞っていて、身内で誰も批判しない。芸能人の失態にはすごく早く反応する人々も。

一体なんなのだろうか。なぜこんな発言が「いよッ、言ってやりました!」みたいに広まるのだろうか。石原慎太郎辺りの「ガツンと言ってやった」系差別発言(そして「あの人はああいうひとだから」と擁護される)とどう違うのか。

私はこれからも自分なりに社会に向き合っていくし、少なくとも社会問題を個人や世代やある業界の素質に結びつけるようなことはしないように心がけたい。

だが、もうツイッターで見られるような、底辺と周縁と縁の下の力持ちを無視した、瞬間風速ありきの、リベラルには関わりたくない。

「その程度で離れるなら、その程度の思想だった」と言いたいなら言えば良い。その程度の人がそこら中にいて、新しいことを始めるだろう。