新井氏の公判は粛々と進められ、彼女は法的責任を問われる可能性がある。だが、責任を問われない人々がいる。虚偽が疑われる彼女の主張を検証せずに信用し、運動を展開してきた人々だ。彼らは町長側の反論に全く聞く耳を持たず、告発段階であるにもかかわらず、あたかも被害が事実として確定しているかのように取り上げてきた。
彼らは、新井氏の「事実無根の発言」に加え、この件とは別の不祥事も理由とした町議の失職についても「日本は遅れている」「女性議員へのバッシング」という自分たちに都合のいい文脈でしか理解しようとしなかった。個人の属性によって証言の重みを変えてしまい、結果として信用に足らない証言を「事実」として広めていった。少なく見積もっても「町長が嘘をつき、言い逃れをしている」という印象を強めてしまった。
支援者にとってはなかったことにしたい過去かもしないが、この事件そのものは検証が必要だ。誰にでもバイアス(偏り、先入観)はあり、それは時に認知をゆがめる。今回の支援者の失敗は誰にも起き得ることだ。なぜ町長の証言を信じられないと彼らは思ってしまったのか。
自身のバイアスを言語化する過程のなかに、社会への教訓が宿ると思うのだが......。