けっこう忘れ去られてる事実かもしれないが、ちょっと昔は、左翼は「不謹慎万歳」だった。
ポルノは体制の抑圧に抗する人間性解放の象徴だとして称揚していた。
「不健全な表現は存在してはならない」なんて、宗教右派か特高警察かみたいなこと言ってる現在とは正反対だ。
「昔の左翼はえらかった」などという話ではない。だってあんまりメンツ入れ替わってないからな。共産党の主たる票田は昔も今も団塊世代だろう。
いかに左翼の正義が何にでも結合するのかということだ。無農薬野菜にも反原発にも、エログロにもポルノ廃絶にも、アニメにもオタクバッシングにも、反戦にも戦争賛美にも、宗教にも宗教弾圧にも、何にでも取り憑いて寄生してしまう。
「体制と対立すること」が目的化してしまっているので主張に一貫性が無い意味不明な存在に見えてしまう。
ヘルシングの少佐のような「手段のためなら目的を選ばないどうしようもない連中」ということだ。
もう少し好意的に解釈すれば、革命を起こして体制をひっくり返すことが行動原理だから「現状の体制」を攻撃できるなら何でも良いということになる。
なので、攻撃の手段がどんなものか・過去の自分達の言動と整合性があるか大きな問題ではない。