私の反原発の言説に対抗するツイートに対して「よく言ってくれた」「勇気づけられた」「参考になった」等のことを、オフで会ったときに耳打ち的に言ってくる大学教員の先生(人文系・芸術系)のひとはこの13年で何人もいた。彼らはそれを表立っては言えないんですよ。そういう言説の「場の空気」がある。
すべてではないだろうが、まちがいなく「同調圧力」「ものを言えない空気」はある。それは、なぜなのだろうか。
反原発、放射能の健康被害を過大に言ったり、不安を助長するような言説……に対しては「批判してはならない」空気がある。いちど批判したら、原発推進派、ネトウヨ等々のレッテルが貼られてしまう。大学の中ではそれが顕著にみられる。
こうした言説の場の力が、どのような機構で形成されるのに至ったのか……こそ、人文社会系の学の対象じゃないんでしょうか。誰も手をつけていないから、ブルーオーシャンだと思いますよ。総取りできる。「"放射能"の文化史」でも「反原発の表現機構」でも。
そういう、まだ手がつけられていない事象に挑むのが学問なんじゃないの。すでにある枠組み、物差しを持ってきて、事象に当てはめ、これは差別だとわかりました……等のは、ただの「答案」なんじゃないのかなあ。
しかし、人文系学問にそのような健全な精神が宿っているわけがないのであった。