「神の思し召しは人間には理解が及ばないのである」みたいな話はよくされるけど、であれば「神のもたらす救いが、人間にとって『なるほど、確かに救われたな』と思えるようなものである保証」も別にないと思うんですよね
神は確かに「人を救済した」と思っていて、実際に神の視点では間違いなく救われており、しかし人間の目から見るとちっとも救われた気にならないし、「間違いなく救った」という神の理屈が全く理解できない、ということはありうるでしょ
「神の思し召しは人間には理解できない」というの、極端に言えば「神にとっての『善』が人間にとっては身の毛もよだつような恐ろしいものである、という可能性を否定できない」ということだと思うんですよね。だって「それはありえない」という保証なんかなんにもないだろ?
旧約聖書のヨブ記がそういう話だったんじゃねぇのかな? と思う事はあるんだよな。
クリスチャンは必死で神を擁護してるけど、あれは要するに神の価値観と人の価値観は壊滅的に異なるぞという話でしかないのではと。
だから、棄教するとか程々に宗教と付き合う、あるいは不条理に目を瞑って盲信する的な受け手に解釈と決定を委ねるのが「作者の気持ち」だったのでは? とか。