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いわゆる「MBTI性格診断」はなぜ流行っているのか

上記のサイトで言われている、インターネット上でのいわゆる「MBTI性格診断」への批判の要点は以下の点です。

  • いわゆる「MBTI性格診断」で自分や相手の性格を決めつけることによって傷つく人も居る
  • MBTI性格診断は十分な知識・経験を積んだカウンセラーによってしかできないもので、インターネット上で簡易的に診断できるものではない。
  • 18歳未満の未成年はまだ自我が未成熟なのだから、このような診断によって自分の性格を決めつけてはいけない。
  • 「MBTI」という単語は私たちの商標であり、私たちに独占的に使う権利があるのだから他人はこの単語を使ってはならない。

このうち、1~3番目の批判は、確かに「そうかもしれない」と思うものであることは、事実です。

(※ただ、4番目について言うと、アカデミズムの分野では、理論というのは公開され反証可能性に晒されなければならないものであるはずで、それの使用を「商標」という形で独占することはちょっとありえないのではないでしょうか。 例えば僕は社会学を研究しましたが、AGIL理論とかエスノメソドロジーといった理論やタームが商標で使用を禁止されたら、学問自体がおかしなものになってしまうわけで。

自分たちとは異なる考えをもつ人たちにたいして、「商標」という法的規制によってその口を封じようとする日本MBTI協会の態度は、研究倫理に大きな問題があるのではないかと、僕なんかは思います。)

そもそも近代社会においてなぜ「性格」が重要視されるようになったかといえば、「自由に生きられるようになった中で、どうやって自分が生きれば良いかわからなくなった」という、アイデンティティの問題が、近代になって出てきたからです。

前近代的社会においては、武士の子どもは武士、農民の子どもは農民というように、自らの生まれによって自分の人生が決定づけられてきました。しかし近代になると、自分の将来は、一定の制限はあれど自分で選択する余地が生まれたわけです。そこで「では自分はどのように生きればいいか」を考える情報ソースとして、性格診断が求められるようになっていったのです。そして人々は、性格診断や、あるいは教養小説などを情報ソースにしながら、自らの「天命(天職、calling)」を決めて、それに従ってアイデンティティを形成してきたわけです。

ところが近代も後期に入ってくると、社会が流動化するなかで「自分が何者であるか」ということも不安定になっていきます。例えば「自分は手先が器用で内向的だから職人として生きていく」と決めても、その職人という職業自体が社会の情勢変化によってなくなってしまうかもしれない。そんななかで、固定的に「自分はこんな存在である」と決め打ちしてアイデンティティを形成するのは、むしろリスクとなってくるわけですね。

そのような後期近代の社会においては、「自分は何者であるか」というアイデンティティの問題より、「自分はどう周囲と付き合っていくか」というコミュニケーションの問題の方が重要となります。もっと言ってしまえば、「自分が何者であるか」ということ自体が、「そういうキャラでいけば、周囲と円滑な人間関係を営める」というように、コミュニケーションの一手段となっているわけです。

日本MBTI協会は、インターネット上のいわゆる「MBTI性格診断」について、「自分や相手の性格を決めつけるのはよくない」といいます。しかしこれは、「自分が何者であるか」が先にあり、それを実現するための手段としてコミュニケーションが行われていた、近代の初期なら通用する理屈だったかも知れませんが、コミュニケーション自体が目的化した後期近代においては、「自分や相手のキャラがふわふわした状態であるが故にコミュニケーションに支障を来すのなら、決めつけで良いから自分のキャラを決定してしまいたい」という切実な必要を無視した、単なるお題目に過ぎなくなるのです。