/note/social

女の子同士のいじめはどういうルールで行なわれているのか?

女に子どうしのいじめは、日本では少女マンガやライトノベルなどのサブカルチャーが繰り返し描いてきた。アメリカも(たぶん)同じだろうが、シモンズの本が大きな反響を呼んだのはそれを社会問題として真正面から取り上げたからだ。それはいわば、“toxic femininity(毒々しい女らしさ)”の女性の側からの告発だった。

じつはノルウェーの社会心理学者カイ・ビョークヴィストが、1990年代に「女の子の攻撃性」を精力的に調べ、男の子の「直接的攻撃」に対して女の子は「間接的攻撃」を多用すると論じている。その後、ミネソタ大学のグループがこれを「人間関係を用いた攻撃」「間接的攻撃」「社会的攻撃」に分類し、以下のように定義した。

  • 人間関係を用いた攻撃:「人間関係、つまり、他人に受け入れられているという感覚、友情、グループの一員であるという意識にダメージを与える行為によって、他人を傷つけること」。無視する、仲間外れにする、嫌悪を示すしぐさや表情を見せる、相手とほかのひととの関係をこわす、自分の要求に応えないならつきあいをやめると脅すなど
  • 間接的攻撃:こっそりふるまい、相手を傷つける意図などまったくないかのように見せる。噂を流すなどして、他人を使う
  • 社会的攻撃:自尊心やグループ内の社会的ステイタスを傷つける。噂を流したり、社会的に排除したりする

シモンズはこれらを「裏攻撃alternative aggression」としてまとめたうえで、「女の子のいじめは、結束のかたい仲よしグループの内部で起こりやすい。そのため、いじめが起こっているとは外にはわかりにくく、犠牲者の傷もいっそう深まる」とする。

「女の子のいじめ」はアメリカでも深刻になっているにもかかわらず、つい最近まで、なぜ「社会問題」として取り上げられなかったのか。それには3つの理由があるとシモンズはいう(これは日本にも共通するだろう)。

【いじめは通過儀礼】

アメリカの多くの母親は、自らの体験から、いじめは女に子にとって通過儀礼であり、それを防ぐために親(大人)にできることは何もないと考えている。「女の子がいじめ、いじめられつつ、つきあい方を学ぶのは必要なことであり、積極的な意味がある」「(いじめは)女の子がのちに大人になったときに自分を待ちうけるものを知るためにある」との主張も根強い。「女の子のいじめは普遍的に存在し、役に立つのだから、社会構造の一部として容認すべきだ」というのだ。

【いじめられる側にも問題がある】

日本と同様に、「いじめの被害者には社会的な技術が欠けている」とされる。「いじめられた子は強くなり、学習して、うまく社会にとけこむすべを身につけなければならない」と考える大人も多い。

【女の子のいじめは指導が困難】

教師の立場からすると、男の子同士のケンカは対処しやすいが、女の子のいじめは扱いにくい。ある教師は、「もし男子がペンで机をトントン叩いていれば、やめなさい、といいます。しかし女の子が別の子に意地悪そうな目つきをしていても、『こちらを見なさい』というくらいしかできないんじゃないでしょうか。男子の悪さは一見してわかりますが、女の子が何をしているか、確かなことはわかりませんから」と述べた。女の子同士のいじめは見て見ぬふりをされるのだ。

そんなアメリカの学校で女の子たちは、“開放的で自由な青春”というイメージとはずいぶんちがって、日本の女子中学生・高校生と同じような悩みを抱えている。男の子の攻撃性と比べて長いあいだ軽視されてきた「女の子の攻撃性」だが、シモンズはそれが、(「環境を支配するため手段」としての男の攻撃性に対して)人間関係と愛情を確認するため、すわなち「共感力」から生じるのだとする。

それの一方で「なりたくない女の子(ANTI-GIRL)のなかには、「頭がいい」「強い」「自立している」などが入っている。フェミニストが理想とする女性像は、10代の女の子たちにとって「いけてない女」の典型とされているのだ。

シモンズが注目するのは、「理想の女の子」に要件に「嘘っぽい」「人を操る」があり、「なりたくない女の子」に「強情」「独断的」「まじめ」が挙げられていることだ。これは、「裏攻撃」が得意だと女の子集団のなかで高く評価され、不得手な女の子は避けられるということだろう。10代の女の子たちにとっての理想は、「自分の感情を抑え、他人を操作することで自己表現できる子」なのだ。

シモンズはそれを、「頭が悪く、それでいて人を操れる。人に依存して頼りないが、セックスと恋愛を利用して力を得る。人気があるが、踏みこまない。健康的だが、運動はしないし頑丈でもない。幸せだが、陽気すぎない。真実味が薄い。自動警報装置がないぎりぎりのラインで爪先立ちして歩いている」ようなタイプだという。これが「リベラル」な女性たちが“toxic femininity”と見なすものだろう。

MEMO: