つまり、社会学者には
- 大風呂敷を広げた預言者
- 特定の理論と特定の方法を携えて実直に調査研究を続ける、「職人的」な社会学者
の2種類があり、そして自分たちは後者の社会学者であり、前者のような自分たちより上の世代のエセ社会学者*1は駆逐されるべきだと、そう主張するわけです。
つまり
- くだらない規則が決められるメカニズムを理解することにより、そのようなくだらない規則を廃止し、より合理的な規則を制定することが出来る
- 女子が外見で判断される仕組みを理解することにより、その仕組みを無くし、女子が外見で判断されないようにする
- 受験以降も、人生を変化できるようにする
などのことが、「職人的」な社会学によりできるようになるというわけです。
なるほど、そうやって聞くと確かに、具体的な問題を解決する「職人的」な社会学こそが今の社会に必要であり、抽象的でよく分かんない理論(グランドセオリー)をこねくり回す「大風呂敷を広げた預言者」なんか大学から駆逐し、彼らに費やしているお金で、より「職人的」な社会学者こそを多く雇えばいいと、そう思えてきます。
「でも、そうやって『人々にとって切実な問題』を解決し、社会を合理的にしていくことが、本当に社会全体を良い方向に持って行き、人々が生きやすい社会にするのだろうか?」と。
しかしこれは、岸氏の言う社会学の考えでは、そもそも「社会学が解くべき問題」とはなりえません。なぜなら「女子だからといって、外見で判断されるのはおかしいのに、今の社会はそうなっている」というのは、「女子だからといって、外見で判断されるのはおかしい」という規範概念によって、切実な問題となりえますが、「能力がないひとは能力がないと判断され、能力が高い人より得るものが少ない」というのは「能力がない人が差別されるのは当然」という規範概念が社会に浸透している以上、切実な問題となりえないからです。
ですが実際は、そのように社会で自明とされていることにこそ、人々を不幸にする原因があると指し示したのが、まさしく岸氏が批判するような「大風呂敷を広げた預言者」の社会学なのですね。例えばそれは、マルクス主義フェミニズムにおける家父長制であったり、あるいはフランクフルト学派における道具的理性だったり……
これらの社会制度やシステムは、「切実な問題」の直接的な原因ではありません。ですが、そこを根本的に変革しない限りは、社会は結局人々を不幸にする方向にしか変化していかないと考えるのが、「大風呂敷を広げた預言者」の立場なのです。
それに対し、「職人的」な社会学は、そのような社会全体を批判し、それを根底から変えようとしません。そうでなく、社会全体はよりよい方向に進歩しているが、その過程の局所局所で歪みが生じているから、それを修正すれば自然と社会は良くなり、人々はより生きやすくなるとするのが、「職人的」な社会学の立場なのです。
戦前、マルクス主義や自由主義に基づいて社会全体を変革することを夢見た社会科学者たちは、治安維持法などにより弾圧される中で、南満州鉄道など様々な植民地統治を行う部局に入り込み、そしてその場で、自らの学識に基づいて「人々がどう不満をもたず、より幸福に統治されるか」を考える職に就きました、まさしく「特定の対象と特定の問題に、特定の理論と特定の方法を携えて実直に調査研究を続け」たわけです。
しかしそれは結局、日本の植民地支配を支える、総動員体制の1ピースとしての役割でしかなかったわけです。そしてそのような「自分たちの持ち場で問題を解決さえしていれば良いから、それが日本社会全体にどういう意味を持つかは考えなくて良い」とみんなが考えたことこそが、まさしくこの日本をあの敗戦に突き進ませたわけです。
そのような歴史を思うと、どうしても僕は「職人的」な社会学を称揚する気にはなれないのです。