日本で知性のある人間が尊敬されない理由って、知性の使い方がヘタクソで無意味だからなんだよな。「問題に対する解決方法の粗を探す」のを知性だと勘違いしてるアホだから尊敬されない
知性と知識は道具に過ぎないので、使い方が狂ってたらバカにされるのは当然の話
たとえば「ひやっしー」の話でも、ひやっしーの開発者が尊敬されるのは少ない知性や知識を正しく社会が求めている方向に使っている立派な人間だから評価される
逆にあれの「化学方程式がメチャクチャ」「理論がおかしい」とか言ってる奴は、知性や知能の使い方がおかしいので人間のクズとみなされる
まず基本的に、社会では「間違った解決方法を提示する人間」のほうが「間違いを指摘する人間」よりも評価される。なぜなら、そういう価値観を持つ社会しか繁栄できないからだ
間違いを指摘する人間を称賛する社会は滅びるから、社会という存在は絶対にこの価値観にしかならない
なぜかと言うと「社会は正しさを必要としない」からだ
例えば、愚かな人間が間違った解決方法を提示する「あんな間違いで良いなら、同じ方法で正しいことをすれば更に評価されるのでは」となる
クソゲーが売れる事で、多数の新規開発者が「自分ならもっとやれる」とゲーム産業に流れ込むようにな
一方で間違いを指摘する社会はどうだろう。例えばクソゲーを発売した開発者が、同業者からボコボコに叩かれ次回作の発売流通やスタッフの雇用に制限をかけられたりして再起不能になった
こういう状況では優良なゲーム開発者も尻込みする、ゲーム産業は衰退するだろうし、それを是とする社会は滅びる
社会は1億人の人間で構成されている。その中でたった1人の正しさや間違いなど、社会にとっては無に等しい塵芥に過ぎない
一方で、社会の方針は重要だ「間違えても称える社会」であるか「間違いを皆で叩く社会」であるか、繁栄と衰退の分かれ道になる
つまり、社会や産業が衰退せずに存在しているならば、そこは絶対に、間違いを犯す人間が称賛され、それを指摘する人間が嫌悪される環境であるはずなのだ
間違いの賛美と、指摘者の迫害は、社会が成立するために欠かせない仕組みであり。ひやっしーの制作者が社会の中心に迎えられるのは当然と言える
これに文句を言うのって「どうして鳥は骨が弱いんだ! もっと頑丈にすべきだ」ってキレてんのと同じでアホなんだよな
空を飛ぶために軽量化が必要なので鳥の羽は陸上生物より脆い。鳥は空を飛ぶのが最優先なので、骨の頑丈さは犠牲になるわけだ
社会も同じで「大勢の人間が挑戦する環境を維持する」ことが最優先で「正しさ」はその犠牲になっている
そう考えると、学校で「正解」で加点して「間違い」で減点するのは、社会の基本的な戦略と矛盾するので不適切なんだよな。試験というものの存在が人を社会不適合者にしている
社会ではおおむね「人々の為に働く」で加点されて「それを採点する」で減点される
つまり学校で尊敬される教師という仕事は、社会だと最も軽蔑される仕事であるわけだ
最も軽蔑されるタイプの人間を手本として育たざるを得ない現代人に社会不適合者が多いのは当然の結果と言える