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差別は程度問題ではないなんてことはない ─ 現代倫理が示す公正の姿

「反差別」を掲げるような人に限って差別的な言動を止めないという現象は割とよく見る。上のまとめのブックマークコメントには「種差別は極論として考えておくと役に立つぞ」と書いておいた。これについてもう少し踏み込んで書いておこうと思った次第。

まず前提として覚えていてもらいたいのは、我々は「幸福追求権」という権利を持っているということだ。これは人権のひとつで、字面だけ見れば誰もが幸福を目指してよいということはすぐわかるだろう。ではその「幸福」とはなにか。

幸福とは快楽が多く苦痛が少ないことである。快楽の中身はなんでもいい。単純な娯楽でもいいし知的好奇心を刺激する活動でもいい。個々人によって快楽が得られるものは違うのだから、その中身は問わない。俺もこうして文章を書いてるのは、書くこと自体も快楽だし、読んでもらえることも、感想をいただけることも快楽だからだ。これは古代ギリシア時代の幸福論の一つで、快楽主義と呼ばれる考え方だ。

ピンと来る人もいるだろうか。そう、社会に効用をもたらし苦痛を減らし、快楽をプラスにしていくことこそが、まさに現代倫理であり道徳なのである。なんとなくよいことくらいのニュアンスで倫理や道徳という言葉を使ってる人も多いだろうが、倫理や道徳は少なくともこの程度の解像度で語れるものなのである。

動物に苦痛を与えてはいけないし幸福追求権もあるという考え方は、屠殺にも苦痛のない方法を選ばなければいけないという圧力としても機能した。棍棒で殴り殺す屠殺から電気ショックへの移行は、労働者の苦痛も減らすので導入が進んだ。

また知能の高い動物は自分が殺されることを予見できるので、その恐怖が苦痛になるから殺してはいけない、というのも出てきた。「頭のいい動物は食べてはいけない」と言われて「はぁ?」としか思わない人も多いだろうが、実は功利主義に基づく論理的な考え方なのである。いわゆるヴィーガン思想はこういう論理的な後ろ盾があるのだ。