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言葉を消費されて 「正義」に依存し個を捨てるリベラル 星野智幸

それで理解に⾄ったのである。リベラルな考え⽅の⼈たちは、「正義」に依存しているのだと。

リベラルな考え⽅に理があるかどうか、現状に即して公正かどうかという判断と、リベラルな思想は「正義」であって絶対的に正しく否定されることはありえない、という感覚を持つことは、まったく別の問題である。⾃分を含めリベラル層の多くが、じつは後者を求めていると私は気づいた。

「⽇本⼈」というアイデンティティーが、「⼈種も⽣まれ育ちも⽇本だ」と思っている⼈にとっては、ごく⾃然で決して否定されない絶対的な真実だと感じられるように、リベラルな思想は疑う余地のない正しさを備えていて、そのような考え⽅をする⾃分には否定されない尊厳がある、とリベラル層は思いたいのだ。いずれも、普遍の感覚によって⾃分を保証してほしいのだ。

「⽇本⼈」依存というカルト化が進んでいることに、11年前の私は強い不安を覚えたわけだが、じつは同時に、ずっと⼩規模ながら「正義」依存のカルト集団もあちこちに形成されて、その依存度を深めていったわけだ。

個⼈を重視するはずのリベラル層もじつは、「正義」に依存するために個⼈であることを捨てている。「正義」依存の⼈同⼠で、⾃分たちが断罪されることのないコミュニティーを作り、排外主義的な暴力によって負った傷を癒やしている。私が⾃分の発⾔に無意識に制限をかけていたのは、その居場所を失って孤⽴することを恐れたのだろう。

「正義」依存者であれ「⽇本⼈」依存者であれ、そもそもは弱って⾃分⼀⼈ではどうにもならない苦境から脱するために居場所を必要としたのであり、そこには理がある。問題は、その居場所が無謬(むびゅう)化していくことだ。

無謬とは、間違いがない、という意味である。カルトの本質は無謬性にある。教祖が掲げた教義を、信者たちは決して疑ってはいけない。無謬性に完全服従し全⾝を預けることで、⾃分も間違いのない存在だというお墨付きを得る。絶対的な真実だから、それを批判する者は排除してよい。

それぞれのカルトが、そうして無謬性の感覚をベースに否定しあい攻撃しあっているのが、この世の現状なのだろう。この状態はもはや⺠主的な世界ではない。