/note/social

「ナチス」について少しでもポジティヴなことを語れば、いきなり異端審問されても文句は言えないのか【仲正昌樹】

念のためにもう一度言っておくと、私自身は「ナチスが何か良いことをやった」と主張したいわけでもないし、そういう主張を擁護したいわけでもない。むしろ、そういうことを言う人とは距離を取りたい方である。私のナチスに対する好き嫌いの話ではなくて、「ナチスは何もいいことはやっていない」と言われて、「そうかな、いろんな側面を細かく分けてみれば、少しくらいはいいこともしているんじゃない」、という素朴な疑問を呈する人に対して、そういう発言を許さず、「お前は分かってない。これを読んで勉強しろ。そんなレベルで発言するな」、などと強要する行為を問題にしているのである。

そして、そうした傲慢な態度の“根拠”になっている、「ナチスは全く良いことをしなかった」という断定は、いかなる意味でも学問的な態度でなく、宗教めいている、とも言っておきたい。疑似宗教的な前提に基づいて、意見が違う(ように見える)人を集中攻撃して精神的に参らせ、黙らせるのが、真剣にナチズムについて学び、考えようとする人間のやることか。まるで異端審問だ。

先ほど述べたように、歴史の叙述に、「善/悪」という概念を開き直るような形で持ち込むのは論外だが、どうしても「善/悪」について語りたいなら、対象を絞り込む必要がある。「ナチス」とは具体的に誰か、党か国家か。党の場合、一般党員やヒトラーに反逆した人まで含むのか、国家の場合、一般国民や公務員まで含むのか。あるいは、ヒトラー個人や幹部だけを指すのか。幹部という場合、どこまで含まれるか。

どの範囲(分野と時期)、どの側面(倫理的な視点、経済効率的視点、政治的視点、エコロジー的視点)、誰にとってかも、特定しないと意味がない。少なくとも、ナチスの国家運営には、ブックレットに扱われている以外にも、金融や司法、治安、国防、治水土木などの分野がある。「経済」に関係するあらゆる政策を「経済政索」と一つにまとめて、一九頁で全て語ったことにするのは乱暴すぎないか。いずれのポイントについても、◇◇には経済効果があったと言われているが、それは〇〇したおかげであり、それには△△の副作用が伴ったというような書き方になっている。正解は何なのかが示されていないので、「良いことはしていない」と証明されたとは思えない。

ナチスを肯定しようとするネトウヨを封じるためには、こうした強圧的なやり方も仕方ないと言う人もいる。しかし、そんなことを言い出せば、「全体主義の危険を未然に刈り取る」ための言論弾圧も正当化される。本末転倒だ。全ての人に、ナチスについて「正しい語り方をしろ」というのは傲慢であるだけでなく、危険である。ナチスの財政・金融政策等を学んだ人が、ナチスの政策を全体としてどう評価するかは、本人に任せるしかない。それが自由主義社会だ。ナチスがやったことを一つ一つ分解して、どう評価すべきか考えることを許さず、「答えは出ている。これに従え」と口封じするのは、自由のための戦う人のすることではない。そんな口封じ、教理問答が当たり前の社会は既に、自由主義社会ではない。