現状のAs-Isを分析して、あるべきTo-Be像を描く。そういう仕事を、社内でも社外でも続けてきた。その中で感じるのは、わたし達の社会における、「ありたい姿」を描く力の弱さである。企業も個人も、そして社会全体もそうだ。日本社会がどういう「ありたい姿」に向かっているのか、わたしにはサッパリ分からない。
わたし達は経営の流行やビジネス・トレンドに敏感だ。スマート製造だのDXだのも、流行の一種と言えよう。皆が走る方向に、自分も走り出す。ライバル企業が既にやっているというと、稟議も通りやすい。だがそれは大学受験と同じで、皆が進学するというから、自分も試験を受けるというのに等しい。成績優秀な人は医学部や法学部に行くからといって、医者や法律家になることが、自分の望みと言えるのか。
日本企業は(わたし自身の勤務先も含めて)、『顧客の望み通り』に働くのが得意である。問題を出されると、それが無理難題に近くても、なんとか技術的に解こうとする。一種のプル型、ないし受け身の能力といってもいい。その問題解決能力は一級品だ。だが、自分で課題を設定することは上手ではない。言われた通りのものを作るのは得意でも、自分から「良いもの」を提案することは、あまりない。人に褒められることは得意だが、自分の中に価値観が薄い。
だから、あえて言うが、日本のエンジニアは詳細設計は一流でも、全体に関する基本設計は凡庸だ。すぐれた基本設計のためには、「良い」ものとは何かについての、価値観が必要だからだ。
価値観とは、わたし達が何かを選ぶ際の、優先度に関する基準である。それは言語化されているかもしれないし、暗黙かもしれない。ただ、何かを決めて行動をする場合に、それは現れる。価値観を持つ人びとは、行動の選択に、ブレがない。
わたし達が何かをする場合、理由はいろいろである。息をしたり、夜眠ったりするのは本能、すなわち生理的欲求に他ならない。朝起きて職場に行ったりするのは、習慣だからかもしれない。「行きたくない」気分のときも、行かないと不利な結果が待っていると思い、無理に出かけるのは、規範やルールに基づく義務感かもしれない。ルールと言うのは、大抵罰則を伴うものだ。
本能、習慣、そして規範に続く要因として「欲求」があろう。わたし達人間には「社会的要求」というものがある。人に認められたいとか、人に勝ちたいとか、人を支配したいとか。ここで欲求段階説などに深入りするのはやめておく。ただ、「この世は所詮、色と金」と思う人は、人間は全て欲望にドライブされている、との世界観を表明しているわけだ。
そして、わたし達の欲求の充足度合いをフィードバックする信号が、感情なのである。欲求が充足されていれば、満足感や安心感を、不足していれば、不満や怒りや恐れを、脳の思考回路にフィードバックする。欲求という動因を強化する補助剤として、感情がある。
近頃の社会で目立つのは、『ワガママなくせに意思がはっきりしない』面倒な人たちだ。そんな顧客を、あなたも見たことはないだろうか。こういう人たちは、欲求に基づく快不快には敏感でも、自分の中に明確な望みや価値観がない。だから、何を提示されても真の満足がない。しかし自分のありたい姿に向けて、構造的に戦略的に、行動をプログラムしていくこともできない。こういう他律的な人や組織が増えると、互いの協力やアライメントが難しくなる。今の社会がバラバラで分断されがちなのも、不思議ではない。
どうして、こうなるのか。理由の一つは、わたし達が外部・社会から与えられるモノサシ、とくに競争社会での勝ち負けによって、学校時代からずっと駆り立てられてきたことにある。意味不明な受験勉強、ワケワカな出世競争、それに駆動されるうちに、自分の評価を、自分自身でなく外部に委ねてしまうようになる。自分の真の望みも価値観も、見えなくなってしまう。
価値観を持つとは言い換えるなら、お金以外の判断基準を持つことだ。お金はもちろん必要である。だが、お金は(生き延びて)幸せになるための必要条件でしかない。お金だけあっても幸せにはなれない。充分条件では無いのだ。そしてブレない人が多い社会の方が、実はお互いに住みやすい。だから、わたし達は自分の意思と望みをもって生きるべきなのだ。
人を動かす動因、人の望みには、本能・習慣・規範・欲求・個人の意思、の上にもう一つ、レベルがある。
それは、自分だけでなく、人類すべてが幸せになりたい、と望む事だ。人類が皆、労苦から解き放たれていつか救済される、という望みに従って動くこと。このような望みをもつのは、人類だけの特徴だろう。サルや鯨にどれほど知性があるかは知らないが、彼らが自分たちの種全体の救済を望むかは、あやしい。