世に誤解されているように、仏教ではどんな「欲」も持ち合わせてもいけない、というのは正しくなく、精進につながる「意欲」すなわち向上心や学びを深めていこうとする欲は推奨されている。また、プラユキがあまり「悟り」を語らない理由の一つは、悟りは「果」であって、「因」ではないからである。 @phrayuki
世に誤解されているように、仏教ではどんな「欲」も持ち合わせてもいけない、というのは正しくなく、精進につながる「意欲」すなわち向上心や学びを深めていこうとする欲は推奨されている。また、プラユキがあまり「悟り」を語らない理由の一つは、悟りは「果」であって、「因」ではないからである。
@phrayuki
悟りを欲するのはよい欲求であると。
(2016/10/23)