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差別は常に許されないのか

会社の男性社員が猫を飼いたいって言い出したことに違和感を覚えた。飲み会でのちょっとした台詞だったからみんなも適当にスルーして会話が流れてしまったんだけど、今でも思い出してはもやもやする気持ちがたまにある。

その男性社員は普段から根暗で自分からは何も動こうとはしない人だった。会議で発言もしなければ事務書類の提出も期限直前に催促されてやっと動き始めるタイプ。顔つきも歳に似合わず幼く、おそらく何らかの発達障害なのだろうと思う。

そんな人が猫を飼ってちゃんと世話をできるのかと思った。猫は会社の処理とは違う。会社の処理はサボっても当人が怒られるだけだが猫は病気になったり死んでしまうのだ。

飼っている人が多いから侮られがちだが猫の世話もなかなか大変だ。餌やトイレの世話だけじゃない。爪研ぎで部屋の壁を壊すし毛玉を吐くからその掃除もしないといけない。予防接種や様子がおかしかったら人がそれを察知してあげて病院に連れて行く必要もある。病院代は安くても数万円取られる。

そうした猫を飼う上での大変さを知った上で猫を飼いたいと言っているのか、自分の普段の態度を見直さずにそれを主張することのおかしさに気付かずに言っているのか判断しかねた。

おそらくは何も下調べもせずに発言しているのだろう。そうだとすれば直ぐに世話に飽きて保護猫として捨てることになるのが関の山だろうと思った。

あるいは最初から虐待のためなのだろうか。男性のなかには手頃に虐められる対象として猫を飼う人も多い。ケージの中に閉じ込めて死なないように苦しめ続ける。猫を可愛がるよりもそのイメージのほうが男性社員には合っている気がした。

男性社員が猫を飼いたいという希望を言うことにこんなにマイナスなイメージを抱くのはきっと差別心からくるものなんだろう。私自身がその男性社員に対して嫌悪を抱いているからそうした連想が浮かぶことは認めざるを得ない。

でもそうした差別心であっても不幸な猫を生み出すことを避けられるのであれば、捨てるべきでないし本人に直接猫を飼うことの大変さを自覚しているかを問うことも大切だと思う。この世には捨てるべき差別心と捨てるべきではない差別心があるのだろうか。

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