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もしもボスが狂ったら

もちろん、こんな本音を口にすれば、会社は即座に崩壊するかもしれない。だから彼らは「建前」という名の鎧をまとい、嘘を重ねる。正気の私たちから見ればまったく狂っているようにしか見えない。

しかし、その「建前」こそが、私たちが生きるこの社会を動かす、強力なルールであることも否定できないのである。

考えてみてほしい。どんなに理不尽だろうと、野球のルールにプレイヤーが疑問を抱けば野球そのものが成立しないように、「お客様第一主義」や「俺たちは今年も攻めている」といった建前があるからこそ、私たちは日々の業務をこなし、組織はかろうじて秩序を保っている。そして、私たちの待遇や評価もまた、結局のところ、この「建前」にいかに忠実であるかによって左右される。「なんでもかんでも正直に言えばいいというものではない」というのは、私たちが最初に叩き込まれる社会人の心得であり、経済産業省が掲げる「社会人基礎力」*3なるものを見れば、その建前っぷりにめまいがするほどだ。

問題は、この「建前」が、時に人間としての倫理観や常識から大きく逸脱し、「狂気」としか呼びようのない様相を呈することだ。桐生市の生活保護行政の担当者が、歪な建前のもとに人々を追い詰めた末に処分された事件*4は、建前が暴走した末路を、さらには組織が最終的には忠実な盲従者を切り捨てるということを私たちに突きつける。私たちは、外面的には建前を信じながら、それを内面化せず、自身の倫理観と照らし合わせ、かといって、正直に異を唱えるのもダメで、さらなる建前を編み出して「ちょうど良い案配」に折り合いをつけることを求められる。ずいぶんとまあ、都合の良い話があるものだと思う。

MEMO: