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ほんのり差別主義

世界は平和であるべきだし、ありとあらゆる人権は認められ、文化的な生活を送るための保障や福祉は保たれる社会の中で、人々は他人を害さない限りはその権利を尊重されるべき、と考えている。

もちろん多様性を大事にしながら、性別の違いのみならず障がいや社会的立場によって差別されることなく、平等でフェアな社会と制度が運用されるべきであると心から思う。

暴力とヘイトにはNOを突きつけ、対立よりも協調と対話を望む。表現の自由は守られるべきだし、誰にだって意見を主張する権利はあるはず。

これらはまったくの嘘偽りない自分の本心である。そんないい歳の男が日本に生まれ育って40年。

先日「寿司屋にアフリカンの男性が入ってきたら彼の放つ体臭が強すぎてみんな店を出ていった」というまとめを読んだ。

曰く、我々モンゴロイドとはそもそも体臭が違うし、衛生観念も日本人とは違うし、匂うときは香水で誤魔化す、という文化的な違いもある、とはいえ体臭が強いのはたまったものではない、という主旨だった。

もし自分がそんな状況におかれたらどう思うだろうか、とふと考えた。自分は都会に住んでいるので、文化も人種も異なる人たちが放つ体臭もある程度イメージできる。

目の前に決して安くはないだろう寿司、味わいと香りが供されるべく作られた場。おそらく自分も席を立ち店を出ていってしまうだろう、と想像できたところで「それは差別だよ。お前も外国で味わうであろう純粋な差別だよ」というブコメ(意訳)が目に入った。

そうだ、これは間違いなく差別だ。とても自然に悪びれず、差別を成した自分に気付く。そしてこれまで自分が立っていると思っていた自由主義、知性主義の立場、態度はすべてハリボテだったのでは、という疑問が生じた。

もし仮に、苦労して買ったマンションの同階に騒がしい中国人家族が住み始めたとしたら。

自宅の隣人が国籍の分からない中東系の男性たちだとしたら。

心を休めたいと訪れた旅館の共用部をインド系の集団が占めていたら。

自分の家族が屈強な白人たちに囲まれて絡まれていたとしたら。

いずれも顔をしかめて、彼らをなんとかしたい、あるいは遠くに離れたい、と思うに違いない。そしてそれは差別に他ならない。

要するに、自分は自らの周辺に違和を感じる人間が現れると、あっさり差別を成してしまう人間なのだ。

当然に「日本人ファースト」などという唾棄すべき排外主義的かつカスみたいな陰謀論をベースにした主張を含む政治・政党を決して支持しないし、排されるべきと思っている。

ウクライナ、パレスチナを支援したいし、絶えることのない虐殺と紛争は速やかに解決しなければならない、と思っている。募金程度しかできないまでも、そう思っているのだ。

だが、重度の障がいを持つ人の親族を見つめるとき、純粋に彼らを助けたいと思えるか、といえばそうではない。街で奇声を発する得体のしれない人を見かけたら蔑んでしまう。

貧困に苦しむ健康な人々を見て、自己責任という4文字がよぎらないかといえばそうではない。チー牛とか非モテとか弱者男性なんて言葉を差別性を感じないまま使っていたかもしれない。

自分の中にあると思っていた新自由主義、知性主義、戦後民主主義、リベラリズム。

こうした思想・理想は、同じ店に入ってきた人種の異なる男性の存在ひとつで瓦解するものだったのか。「スーパーマン」を観て感動し、心の中で固く握った拳はパチモンだったのか。

ほんのちょっとしたきっかけで自分が差別される立場になる、なんてことはわかっている。わかっているのに、今のこの現状を当たり前のものとして、寿司屋の空間を創造して顔をゆがめる。

こうした矛盾に折り合いをつけるのはどうしたらよいのだろうか。

今のところは開き直って、自分と自分の大切な人を守ることを優先し、目の前の相手も同じプライオリティを抱いている、と想像するところから始めてみるしかないか。

余談だが「クマを殺さないで」と主張する人々の立場が今の自分に近いのではないかと思う。

クマにも生きる権利があるし、殺すなんて勝手で排他的だと主張するのが俺の抱いている理想。かなり愚かしい。

だがもし目の前にクマがいるなら、俺だって誰だって危険を感じて逃げるか、撃ち殺すべきと考えるだろう。

問題は「現実に目の前に危害を加えてくるクマがいるかいないか」ではないだろうか。

危険を感じる相手を撃ち殺す=差別と言い換えるなら、誰しも差別主義者に成りえるし、きっと戦争は終わらない。

差別を超えていくには「クマも同じように逃げたいし生きたいよな」と想像して、殺しあうことなく、お互いに距離を取って暮らす、しかないのかもしれない。

かといってチー牛を撃つのもおかしいのでこの例えはやっぱりナシで。