■ 1. 「大正デモクラシー」の定義と曖昧さ
- 造語の成立: 同時代に使用された言葉でもなく歴史用語として定着しているわけでもない。1950年代頃に登場した造語
- 論者による相違: 時期・内容・評価が論者によって様々であり、高校教科書でも扱いが大きく異なる
- 根底的疑問: 「大正デモクラシー」が本当に「デモクラシー」だったのかという疑問があり、その後に戦争の時代がやってきたことの評価にかかわる
- 一般的な時期区分: 1905年(明治38年)〜1931年(昭和6年)までを指し、政党政治が実現し社会運動が活発であった時期
- 大正時代との不一致: 必ずしも大正時代にすっぽりと収まる出来事ではない
- 前半と後半の区分: 1918年の米騒動を境に内容と担い手が変わる
■ 2. 前半期の担い手(〜1918年)
政党の台頭:
- 1900年代以降、政党が大きな力を持つようになった
- それまでは旧薩摩藩と旧長州藩出身者を中心とする藩閥内閣
- 第一次護憲運動:「閥族打破、憲政擁護」をスローガンに政友会や国民党が桂太郎内閣を倒す大正政変へ
社会運動の二つの層:
- 都市雑業層:日雇い・人足・職人といった都市の下層民
- 1905年「日比谷焼打ち事件」:ポーツマス条約に賠償金が盛り込まれなかったことへの不満から暴動
- 東京・横浜・神戸・大阪など各地で暴動発生
- 日露戦争で最も痛めつけられた階層(たばこ・酒・砂糖などへの間接税増税)
選挙権がないため、集会か運動しか意志表示の手段がなかった
旧中間層(「旦那層」):家作を持ち商売の元手にしている商家、中小工場経営者
- 地代や電気料金の値上げに対する反対運動
- 地域の名望家たちで、彼らの参加により「大正デモクラシー」は大きな潮流となった
媒介者の役割:
- 新聞記者:暴動や運動の様子を記事にし、ときには自ら参加して社会運動を盛り上げた
- 弁護士:逮捕・起訴された「都市雑業層」の弁護にあたった
■ 3. 当時の選挙制度
- 1890年第一回衆議院議員選挙: 直接国税15円以上を納める25歳以上の男性のみ(全人口の約1%)
- 有権者の中心: 直接国税は地租が多くを占めたため、基本的には地主が中心
- 現代との比較: 現在の有権者率が約80%であることと比較すると極めて限定的
■ 4. 後半期の特徴(1918年〜)「改造の時代」
運動の組織化:
- 米騒動以降、暴動型の社会運動が無くなった
- 暴動は瞬間的に訴えられるが成果を獲得できないことに気づいた
- 農民組合・労働組合・水平社・学生団体「新人会」・女性団体・借家人組合・消費組合など多様な組織が結成
普通選挙運動:
- 選挙によって自分達の意見を反映させたいという思い
- 直接国税15円という財産制限の撤廃を目標
- 政党と社会運動を媒介し、前半と後半をつなぐ運動
- 政府側も段階的に直接国税を15円→10円→3円と減額
■ 5. 1925年普通選挙法の成立とその両義性
- 成立内容: すべての成人男子(25歳以上)に選挙権を付与
- 「国民」の制度的成立: 日本の国民国家としての制度的基盤・基礎が成立
「普通」から外された人々:
- 女性:敗戦まで選挙権獲得に時間がかかり、正式な「国民」として認知されず準「国民」扱い
- 植民地の人々:大日本帝国憲法が適用されず選挙権なし(植民地在住の「日本人」も同様)
- 例外:日本本土にいる植民地の人々には選挙権が与えられ、朝鮮人の代議士も誕生(ただし一定居住地要件あり)
治安維持法とのセット:
- 普通選挙により人々を囲い込み、「普通」から外れた・外れようとする人々を治安維持法で取り締まる
- 善き「国民」は選挙権を行使し、運動はするなという体制
- ロシア革命後のソ連との国交樹立により、共産主義への強い警戒心
両義性:
- 権利が付与されたと同時に、そこからはみ出た場合には排除されるという限界が提示された
- 「国民」としての囲い込みと排除の体制が完成
■ 6. 政党政治の問題点
- 1918年9月原敬内閣発足: 米騒動の影響を受けて成立
限定的な民意の反映:
- 藩閥政治より人々の意見をくみ取れるようになったが、「意見」はあくまで政党にパイプがある「中間層」(「旦那衆」)のもの
- 政友会は地域の名望家たちの利益誘導に熱心
- 「都市雑業層」には政党に繋がる手段がなかった
分断の結果:
- 社会運動を行っていた「都市雑業層」と「旦那衆」が分断された
- 「旦那衆」は運動をする必然性がなくなった
■ 7. 「帝国のデモクラシー」という限界(一般的な見解)
大日本帝国憲法下のデモクラシー:
- 主権は天皇にあり、議会は天皇を「協賛」、内閣は天皇を「輔弼」
- 民本主義はこれを前提にした民衆による民衆のための政治要求
- いわば解釈改憲のような大日本帝国憲法解釈
排外的要素:
- 日比谷焼打ち事件も排外的要素がきっかけ
- 植民地朝鮮の3.1独立運動には民本主義者も批判的
- 植民地の存在を自明のこととしたデモクラシー
1931年「満州事変」を終りとする見解:
- 民衆意識が排外主義に向かい、侵略の動きが始まった
- 大正デモクラットの多くが満州事変を支持
- 1920年代と1930年代の間に断絶があるとする「断絶説」
■ 8. 「連続説」という別の見解
1920年代と1930年代の連続性:
- 「大正デモクラシー」の時代に「民衆」の意見を吸い上げなければ回っていかない仕組みを体制的に作り上げた
- 「民衆」を制度的に入れ込むシステムの定着
- 秩序を保ちながら政治を遂行するには「国民」の意見を後ろ盾にしなくてはならない
制度化の帰結:
- いったん制度化されると「国民」の意向をないがしろにできなくなる
- 「国民」の意向が変わると政治の方向も変わる
- 1931年満州事変で「国民」の意見が排外的になったため、ファシズムという事態に入り込んだ
- 1920年代の「成果」が1930年代の事態をつくりだした
ファシズムの成立メカニズム:
- ファシズムが無理矢理「国民」を引きずり込んだのではない
- 人々の考え方が排外主義に傾き「満州は自分達の領土だ」と思った
- それを取り込むことでファシズムが成立
- 「大正デモクラシー」があったが故にファシズムに向かい戦争の時代になった
■ 9. 吉野作造兄弟の象徴性
吉野作造(兄):
- 民本主義を唱え、「大正デモクラシーのチャンピオン」
- 「民衆」の側から民意をくみ上げる必要性を主張
- 大日本帝国憲法の枠内でギリギリの解釈を行った
- 「新人会」の人たちに教え、さらにラディカルな主張へ
吉野信次(弟):
- 農商務省・商工省の官僚
- 支配の側から民意を取り込むことを考えた
- 「新官僚」「革新官僚」へとつながる
- 戦時の民衆動員体制をつくりあげ、ファシズム体制を作り上げる担い手
両輪としての本質:
- 兄は民衆の側から、弟は支配の側から、両者が補い合う関係
- 「大正デモクラシー」があったために革新官僚が出てきて戦争の体制ができた
- 民意の重要性を知る人によってファシズムがなされた
■ 10. 「大正デモクラシー」の終り
- 1933年説:
- 小林多喜二が拷問によって虐殺された年
- この年を境に社会運動から転向する人が増加
- 社会運動の質的転換:(体制への)抵抗の運動から(体制への)翼賛の運動へ
- 体制の側も社会運動の側も変質し、背中合わせの調和のもとに総動員体制の時代へ
■ 11. 問題の立て方自体への疑義
- 従来の問い: 「なぜ大正デモクラシーは戦争を止められなかったのか」
- 新しい認識: 「大正デモクラシー」は戦争を止められなかったのではなく、戦争を進めるのに加担した
- 結論: 「大正デモクラシー」を前提として、あるいは踏み台として、戦争に入り込んでいった