日本の司法の役割は、犯罪者の更生であって懲罰ではない。
この一点に尽きる。司法は、加害者を罰するためではなく、社会復帰させるために存在している。
だとすれば、被害者の怒りや喪失感を癒す機能は、司法の中には存在しない。
報復も償いも、制度上は「目的外」とされている。
つまり、国家は最初から「懲罰」を放棄しているということになる。
それでも人は、理不尽を前にして怒りを感じる。
「更生」では到底納得できない現実がある。
司法が懲罰を担わないなら、その機能を社会が外部で補完するしかない。
それが「私刑」だ。
加害者の名前や顔が晒され、職を失い、社会的に抹消される。
それは法の外で行われる報復であり、同時に人々の鬱積した正義感のはけ口でもある。
多くの人が、それを完全に否定できずにいる。
なぜなら、司法が「罰」を果たしていないからだと思う。
司法が更生だけを見ている限り、懲罰の役割は社会に流出し続ける。
被害者は救われず、加害者は守られ、国民は司法への信頼を失っていく。
その結果として、ネットや世論が「もう自分たちで罰するしかない」という方向へ動くのは、ある意味で必然だ。
日本の司法は「更生」を建前にして、報復という人間の根源的な感情を制度の外へ追いやってきた。
だが、感情は消えない。消せない。
だからこそ、司法の外で「罰」が生まれる。
その現象を国家は止められないし、むしろ暗黙のうちに許容しているように見える。
結局のところ、日本の司法は「私刑」を前提に成り立っている。
更生を司法が、懲罰を社会が担う――その分業構造が、現代日本の法秩序の実態だと思う。