高市さんは努力な人なわけだが、フェミニズムはこういう人を評価しなくなって久しい。努力の結果を強さとして持つ人よりも弱者が努力しなくても良い条件をえられる社会的な仕組みを作るべきだという主張が、いつの間にか弱者に寄り添い、弱者の声を聞くべきで、被害者性を尊重すべきだという現在のあり方になってしまっている。
女性の弱者性は明文化されていない集団的な意識を含めた制度の結果作られてきた。だから制度を変えれば、弱者性は解消される、 というのは一つ。
もう一方で、そうした社会で生き残るために、適応してきた結果が女性本来のものであるように思われているというのがもう一つ。
そして、適応してきた制度が消えると、生存法を失って途方に暮れる人たちが出てきてしまう。こうした人たちに依存を解消して自立せよと迫るのは一種の悪であると考える人たちがいるのも事実。
ということで「負け犬の遠吠え」とかオニババとかが注目された時代を懐かしく思い出したりもしている。
またあそこからやり直しだろうなあ。今度は道を間違えたくない。