■ 1. 町山智浩の発言とその問題点
- 町山智浩が日本学術会議関連の政策を担当する小野田紀美に関して「偏差値35で学術会議担当?」と投稿した
- すでにSNS上では町山に対する批判が渦巻き、怒りが燎原の火のように燃え広がっている
- この発言は極めて危うい発言であり放置してはならない
- 左派、リベラルからの雑な批判の好事例である
- 高市政権への批判として不適切である
■ 2. 政治に学歴フィルターを設けてはならない
- 代議士とは国民の代わりに議論をする職業である
- 様々な人が議論に参加することによって民主主義は前に進む
- 民主主義は議論を重ね、議論を尽くし少数意見に光を当てた上で多数決をする
- 国民の代わりに議論する人はできるだけ多様な方がいい
- 議員は多様であった方がいい
■ 3. 多様な議員の重要性
- 芸能人、スポーツ選手などが議員になることについて極めて肯定的である
- 彼ら彼女たちは真摯に国民と向き合い世界と向き合っている
- もちろん単なる集票マシーンと化す可能性はあり、政治家としての能力、資質は問われる
- このような議員を切り捨てていくと政治は世襲議員、官僚・弁護士上がり、大手企業出身者が中心のものになってしまう
- 議会の多様性を守らなくてはならない
- 閣僚の最終学歴には東大や早慶、海外の大学などが並ぶが、様々な大学出身者、さらには最終学歴が大卒・院卒でない者がいた方が多様な視点が生まれる
■ 4. 偏差値で思考停止してはならない
- 町山は小野田の出身大学、拓殖大学の直近の偏差値をもって、偏差値帯が低い大学の出身者が学術会議担当をすることを問題視した
- 様々な出身大学の人がこの問題に向き合うことで解決策が見えることもあるのではないか
- 学術会議に関する議論を東大、京大卒が独占していいのか
- 偏差値は偏差値であって偏差値でしかない
- 大学の偏差値はその時期によって変化する
- 大学のラベル、レベルは一部重なるが分けて考えなくてはならない
- 小野田の受験時と今の偏差値も異なる
- 大学を見る上で偏差値以外の着眼点は多数ある:
- 歴史、伝統などもそうである
- 偏差値と関係なく教育や研究について特定の分野において突出している部分もある
- 頭がいい、成績がよい、受験で第一志望に合格した、大学で教養・専門知識を身につけた、卒業後に難関企業に入社したは、それぞれ概念が異なる
- 入学先の大学は必ずしも頭のよさ、成績のよさというだけで決まるわけではない
- 受験の方法も問題の傾向も多様である
■ 5. 教育と格差、ジェンダーの問題
- どれだけ保護者が教育に投資するか、教育を重要視するかという問題もある
- ジェンダーの論点:
- 女性の東大進学、理系進学は保護者や進路指導担当者の影響が指摘されている
- 「女の子は受験で苦労しなくていい」「東大や理系は男の子が行くところ」という価値観が存在する
- 男の子には難関校受験のために教育にお金を注ぐ、都市部の大学に進学させるが、女の子にはそうしないという家庭内差別が蔓延していないか
- 仮に町山の主張を前提とし「小野田は偏差値が低い大学に進学した」という事実の先に、「小野田がもし男性に生まれていたらより偏差値の高い大学に進んで(進ませてもらって)いたのではないか」ということも想定される
- 女性が男性に劣っているということを言っているわけではなく、男性が女性よりも教育について投資されているという差別的な問題を指摘している
■ 6. 政治への学歴フィルターの危険性
- 町山の視点はいわば政治に学歴フィルターを設けるような危険な視点である
- 学歴フィルターとは就職活動における学校名による差別、区別などを表現したものである
- 具体的には大学名などにより選別され、受付開始時間と同時に申し込んだのに決められた大学名の人しか企業説明会の予約が取れない、選考において力作のエントリーシートが大学名で落とされるなどである
- 大手企業は選抜度の高い大学の合格者が多いことは傾向として確認できる
- 政治に、民主主義に学歴フィルターはいらない
- 町山の発言は政治を受験競争や就活の延長上で捉える危険な発想ではないか
■ 7. 大学不要論への反論
- 「Fランク大学など潰してしまえ」「低偏差値大学などいらない」という論についてNOを突きつけたい
- 財務省の審議会では「大学なのに義務教育レベルの授業が行われている」との批判がなされ、定員割れ私大の存在意義に疑義が呈されたと報じられた
- しかし基礎学力の不足は大学のみに責任を負わせられるものではない
- むしろ中等教育段階において学力保障が不十分である現実を直視すべきである
- 大学における基礎教育の実施は大学が劣化したわけではなくリカバリーであり、教育のセーフティネットとして不可欠な役割を担っている
- 大学を安易にスケープゴート化する議論は教育政策の全体像を見誤らせる危険をはらむ
- Fランク大学は人を育てる力においてはSランクかもしれない
- 大学は教育機関であると同時に研究機関でもある
- 定員割れ大学であっても研究者が所属し学問が維持されることで学術基盤はかろうじて保たれる
- 学問の蓄積と研究の深化は国力に直結する
- 大学の数を議論する際は分野や地域の視点が不可欠である
- 大学はコミュニティでもあり、地域に存在することで若者の流出を抑える効果も期待できる
- ラベル(大学ブランド)ではなくレベル(実際の学習経験)、学校歴ではなく学習歴が問われる時代になってほしい
■ 8. 左派、リベラルからの批判のレベル
- 町山の論の別の視点での危険性は左派、リベラルからの高市早苗や内閣に対する批判のレベルが低いということである
- 「わたしのかんがえるさいこうなはつのじょせいそうりだいじん」と高市早苗がズレていることの違和感が発せられる
- 右派的な政策への懸念が伝えられるが、劣化した批判はむしろ高市早苗政権を強くしてしまう
- 高市政権の中でも小野田は保守層から支持されている上、担当領域においてタカ派的な政策をとることが懸念されている
- 特に担当する外国人政策などにおいてはそうであり、多様性を尊重しない政権になることが懸念されている
- 町山もその点を懸念したのだろうが、多様性を抑圧すると目される政治家に対して学歴などを持ち出し批判、いや否定し多様性を抹殺しようとする極めてこじれた状況になった
- このようなレベルの低い批判が左派、リベラルを後退させる
■ 9. 筆者の立場と決意
- 筆者はネットで「パヨク」と罵倒される左翼知識人である
- 高市早苗政権、中でも小野田のようなスタンスの政治家がどのように動くか危機感を抱いている
- ただこのような高市早苗、内閣に対するレベルの低い批判、思想の迷走にはうんざりしている
- 左派、リベラルは終わりだと言われ、各党もライトにシフトしている
- そんな中、長年掲げている「会いに行ける左翼」の名に恥じぬよう左翼知識人として新しい左翼の姿を創るのだとここに決意を新たにした