■ 1. 負債返済道徳の問題提起
- 現代社会では「借りたカネは返す」ことを絶対視する規範(負債返済道徳)が支配的である
- ブレイディみかこ氏は借金によって身内が人間性を失う体験から、この道徳を"呪い"として捉えている
- 日本の多重債務者は2025年3月末時点で約147万人に達し、コロナ禍以降増加傾向が続いている
- 2006年の貸金業法改正でサラ金地獄は収束したが、債務問題は「見えない借金」や「潜在的生活債務」へと広がっている
- 借金の理由が複合化し、キャッシュレス化によるデジタル信用の拡大により、気づかぬうちに多額の借金を負う人が続出している
■ 2. 欧州債務危機における負債返済道徳の顕在化
- 2009年頃から始まった欧州債務危機において、EUやIMF、特にドイツがギリシャに見せた強硬姿勢に負債返済道徳が顕著に表れた
- ギリシャは対外債務の返済のために極端な緊縮財政を強いられ、経済が崩壊した
- 若年層の失業率が6割に達し、学校閉鎖、医療崩壊により死者が増加する悲惨な状況が発生した
- シリザ所属の経済学者ヤニス・バルファキスが財務大臣としてEUに交渉したが、ドイツ首相メルケルから「借りたものは返さなければいけない」と冷たくあしらわれた
- ドイツとEUの姿勢は「たとえ国内が混乱して死者が出ても、債務があるのだからしかたがない」というものであった
- この姿勢は英国で「血も涙もない」と批判され、後のイギリスのEU離脱の一因となった
- 反緊縮左派(ジェレミー・コービン、パブロ・イグレシアスなど)は、財政の規律を緩めて国債を発行し、苦しむ人々を救うべきだと主張した
- この運動は借金で人間の生活や命が犠牲にされる倒錯への抵抗であり、ある種の拝金主義への抵抗であった
■ 3. デヴィッド・グレーバーの『負債論』
- グレーバーの基本思想:
- 人類学者でアナキストのグレーバー(1961-2020)は、人が人を支配する構造が人を不幸にすると考えた
- マルセル・モースの贈与論からの影響:
- モース(1872-1950)は経済の起源を物々交換ではなく贈与に見出した
- 贈与は単なる物の交換ではなく、人間関係が深く関わるものである
- 日本のお中元・お歳暮のように、もらった側には返礼の義務が生まれる
- 返礼の義務は対等な付き合いを支配の構図に変える可能性を持つ
- 返礼が道徳的義務化しルール化されると、与えた側が受け取った側を支配できるようになる
- 返礼の義務があるところでは、返し終わるまで人間関係は対等ではなくなる
- 貨幣と負債の関係:
- グレーバーは貨幣の起源を借用証書、つまり「負債の記録装置」であると指摘した
- 借用証書が流通するようになって貨幣になったという
- 貨幣制度は借用証書を保証できる力と信用を持つ存在(国家)がなければ成り立たない
- 国家が貨幣を独占し、税徴収と軍事力のために利用するようになった
- 貨幣が権力と暴力と結びついた瞬間、貨幣は「信頼」ではなく「服従」によって支えられるようになった
- 現在の貨幣経済は借用証書の機能にあふれ、借用証書を売り買いする市場まで存在する
- 借りたものを返すことが個人の信用を膨らませ、返さない人の信用は摩滅する
- 「借金は何があっても返さないといけない」という負債返済道徳が人々の信用情報の基準となり、鉄壁のモラルになる
- この"呪い"によって貨幣は人々を支配し、逃れられなくしている
- 『負債論』執筆のきっかけ:
- グレーバーはマラリア撲滅活動のためにマダガスカルに滞在した
- IMFに緊縮財政を強いられて活動プログラムが打ち切られ、1万人(半数は子ども)が亡くなった
- ロンドンの弁護士に訴えたが、人道派を称する弁護士ですら「でも、借りたものは返さなくちゃいけませんよね」と冷たく言い放った
- 人命よりも重視される負債という呪縛への疑問から『負債論』に取り組んだ
- 負債返済道徳という名の拝金主義は排外主義にも強く結びついている
■ 4. 排外主義と市場経済の関係
- イギリスのアジアン・フュージョンレストラン:
- かつてはオリエンタリズムを感じさせるレストランとして受け入れられていた
- 店員の大半がアジア系移民に変わると"侵略"と解釈されるようになった
- リフォームUKの政策:
- 欧州の右派ポピュリズム政党の台頭が著しく、イギリスではリフォームUKが高い支持率を得ている
- リフォームUKは「移民の永住権をなくす」と発表し、既に付与されている永住権も剥奪すると主張した
- 日本は二重国籍が認められないため、永住権で居住する日本人が多く、在留日本人社会は不安に駆られている
- 一方で「年収6万ポンド(約1200万円)以上の人には5年毎にビザを出す」としている
- この年収はイギリスの年収中央値の2倍以上である
- 真の外国人排除が目的なら所得に関わらず永住権を取り上げるはずだが、富裕層だけは受け入れるという矛盾がある
- アメリカの事例:
- 白人至上主義のトランプ政権下でも、海外の富裕層にビザを高額で販売すると報道された
- 移民そのものが問題なのではなく、お金がない人たちは負担になるから要らないという論理である
- エコノミック・アパルトヘイト:
- イギリスでは格差が拡大し、所得によって住む地域が完全に分断されている
- この状況は「エコノミック・アパルトヘイト」と呼ばれている
- リフォームUKはこれをグローバルに展開し、「我が国には金持ちだけが住めばいい」という政策を推進している
- EU離脱の影響:
- リフォームUK党首ナイジェル・ファラージは英国のEU離脱を主導した
- EU離脱でEU圏からの移民が帰国し、エッセンシャルワーカーの人手不足が発生した
- EU以外からの移民を入れざるを得なくなると、「肌の色の違う移民が増えていかん」「我が国の文化が」と言い出し、以前より差別的になった
■ 5. 社会的通念への疑いの重要性
- 人々が自分を追い詰める原因は、周りから押し付けられた道徳や社会的通念に支配されているためである
- 本来そのような権利もない人たちが人々を責めている可能性がある
- 「こうあるべきなんだ」という一般的通念を疑うことが大切である
- 負債返済道徳の再考:
- 「返さない人はろくでなし」という世間一般の見方を疑い、深く考察すると見えなかったことが見えてくる
- 「貨幣は物々交換から生まれた」という通説を疑う必要がある
- 「借金は何があろうと絶対に返さないといけない」というモラルは常に絶対なのか再考すべきである
- 「外国人が増えると征服される」という不安はそもそも誰が何のために言い始めたのか考えるべきである
- 真の問題の隠蔽:
- 世界のたった1%の人だけに富が集まっていることが深刻な問題である
- それから目をそらさせるために、様々なことを吹き込まれ信じ込まされている可能性がある
- 「ア・ピンチ・オブ・ソルト」(ひとつまみの塩):
- イギリスの言葉で、何でも鵜呑みにせず少しばかりの猜疑心を持って物事を考えろという意味である
- この姿勢があれば、悩まされていたことが根拠のない不条理なことだったと見えてくる
- 同調圧力の強い日本では嫌われる言葉かもしれないが、世間的通念に押しつぶされないために必要である
- 自分を責めるより「ア・ピンチ・オブ・ソルト」の姿勢が重要である