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天才哲学者が語る「殺人は悪」という道徳すら絶対のものではないという現実

要約:

■ 1. 二人の哲学者の出会いと背景

  • 出口康夫教授とマルクス・ガブリエル教授は2024年2月に初めて対面した
  • 出口教授は2023年夏にNTTと共同で「京都哲学研究所(KIP)」の設立に参画し、現在は日立製作所、博報堂、読売新聞も理事会社として参画している
  • KIPの重要なミッションの一つは国際的ネットワークの構築であり、その一環としてドイツのハンブルクのThe New Institute(TNI)とボン大学を訪問した際にガブリエル教授と会った
  • 近年、哲学に対する社会的ニーズが再び高まっており、産業界、公共機関、NGOやNPOなど多くのプレーヤーが哲学的な知や言葉を必要としている
  • ガブリエル教授はアンドレイ・ツヴィッター氏から出口教授のWEターンに関する活動を紹介された
  • ボンでの夕食は偶然実現した(ガブリエル教授がフランス科学大臣との面会予定がキャンセルになったため)
  • その夜の対話で二人の研究が非常に近いことを実感した

■ 2. WEターンの概要と価値多層性

  • WEターンの構想は2016年12月に着手され、道元の自己観と西田幾多郎の後期自己論が重要な着想源となった
  • WEターンは自らの主張を絶対的なもの、誰もが採用すべき考え、どの社会にも通用するアイデアとは見なしていない
  • WEターンはワン・オブ・ゼムの人間観、世界観、社会観、価値観の提案にすぎない
  • WEターンは「なんでもあり」という相対主義とは一線を画し、相対主義との差異化を図る際に道徳的実在論が重要な役割を果たす
  • 社会がWEターンしても直ちにユートピアやパラダイスが実現するわけではなく、「善いWE」も「悪いWE」も存在する
  • 重要なのは何が善いWEで何が悪いWEかを見定めることである
  • WEターンはWEの善さと悪さを定義するが、非WEターナーは必ずしもその定義に賛成するとは限らない
  • 複数の異なった「善いWE」「悪いWE」の定義が並び立ちうるとWEターンは考える

■ 3. WEターンの譲れない一線

  • WEターンにも「譲れない一線」が存在する
  • それは「WE」ですらない、「悪いWE」ですらない、「WE」そのものを自己破壊し自己解体するような「WE」、すなわち「ゼロWE」は断じて許されないという点である
  • これが相対主義とWEターンを画する一線である
  • WEとは共同の身体行為の主体としてのマルチエージェントシステムである
  • ゼロWEとは共同行為自体を自己否定する行為である
  • ゼロWEの具体例:
    • WEの多くのメンバーの生存の基盤である自然環境を破壊する行為
    • WEのメンバー間の対話やコラボレーションを拒絶する行為
    • WEのメンバーの存在意義を否定し、その存在自体を「駆除」しようとする行為
  • これらの「WEをゼロ化する行為」に対する「譲歩なき禁則」の背後には、「してはならない」ことを指し示す「否定的な道徳的事実」がある

■ 4. 道徳的事実とエチケットの区別

  • ガブリエル教授は道徳的事実の例として「溺れる子どもを助けるべきか」といった明白で極端な例を挙げる
  • これは議論の前提となる「共通の道徳的直観」を確認するためである
  • 道徳的な問題とそうでない問題を混同することがあり、その一つが「エチケット」である
  • エチケットは倫理のように受け取られることもあるが、実際は単に文化的なもので深い道徳的意味は特にない
  • エチケットの例:
    • 箸の使い方やお茶碗の持ち方は、その文化共同体に属していない限り通常は道徳的な問題ではない
    • ドイツ人がうまく箸を使えなくても非道徳的だと責める人はいない
  • 文化共同体内部では作法を通じて道徳的な立場が示されることもあり得る
  • 人々は単なる文化的な慣習を道徳的なものと感じてしまうことがあるが、実際にはそうではない場合もある
  • 文化を超えて共有される明白な道徳的事実も存在する
  • 例えば、東京の駅で誰かが車椅子の人を階段から突き落としたら、文化的背景にかかわらず誰もが衝撃を受け「これは悪いことだ」と言う

■ 5. WEターンと道徳実在論の統合可能性

  • 明白な道徳的事例には何らかの共通のパターンがあるはずである
  • WEターンはマルチエージェントシステムにおける要素間の調和や不調和、配置といった観点から、この問いに答えるための概念的フレームワークを提供できる
  • 車椅子の例には階段を下りる多くの人々、車椅子に乗っている人、その人の脆弱性、車椅子の製造者、障害の歴史など無数の要因が絡み合っている
  • WEターンの視点を用いれば、そのネットワークのどの配置が「善」であり、どれが「悪」であるかを分析できる
  • 出口教授が描くWE(現実のWE、可能性としてのWE、ゼロWE、最大限安定したWE)はすべて客観的な事実として存在する
  • 出口教授は明らかにWEに関する実在論者である
  • ガブリエル教授の道徳実在論と出口教授のWEターンを組み合わせることで、道徳的状況を分析するための新しいプロジェクトが生まれる可能性がある
  • AIシステムの導入も考えられる:
    • 異なる文化の人々に様々な事例について「善い」「悪い」「中立」といった判断をしてもらいデータベースを構築する
    • AIを用いてどの事例が普遍的な道徳に関わるもので、どれが単なる文化的慣習なのかを識別する
    • WEターンを概念的ツールとして装備したAIにWEマップのようなものを作らせれば、価値の空間における発見につながる

■ 6. 具体的倫理の必要性

  • ガブリエル教授の「具体的倫理(Concrete Ethics)」という考え方は、WEターンと親和性が高い
  • WEは常に特定の状況の中に置かれており、状況から切り離されたWEは存在しない
  • WEの普遍的な構造や特徴について抽象的に考えることは可能だが、現実のWEは常に具体的な文脈の中にある
  • WEは社会的、経済的、歴史的な文脈における身体的な行為を取り巻く環境に深く根ざしている
  • あらゆる道徳的判断はその特定の文脈の中で考慮されなければ意味をなさない
  • 概念的レベルでは「原則」と「適用」を区別することは可能だが、それはあくまで思考上の整理であり現実的な区別ではない
  • 「上にある原則から下にある適用へ」という一方的な関係ではなく、原則と適用の間の相互的、双方向的な関係が重要である
  • 普遍的な意味を持つガイドラインから始めることは概念的な道具として有用だが、その道具は常に具体的な文脈の中で問い直されなければならない
  • 原則と適用の関係は常に双方向的であるべきである

■ 7. 抽象的原則の限界

  • 倫理に関する規則を定式化しようとすると、その規則が抽象的すぎたり普遍的すぎたりして、実際には何をすべきかを教えてくれないことがよくある
  • 功利主義の限界:
    • 「できるだけ多くの人々の幸福を最大化する行為が善いこと」という原則は、車椅子の人以外の全員がその人を突き落とすことに喜びを感じる場合、「突き落とせ」と命じることになる
    • 「他者に危害を加えない限りにおいて幸福を最大化する」といった修正を加えても、常に新しい状況が現れ原則の修正を迫られる
  • カントの定言命法の限界:
    • 「汝の人格や他のあらゆる人の人格における人間性を、常に同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱ってはならない」という原則では、パンデミック下の学校閉鎖やソーシャルディスタンスが人々を手段として扱っているのか目的として扱っているのか判断できない
  • 黄金律の限界:
    • 「自分がされたくないことを他人にするな」という原則は、人によって他人に何をしてもらいたいかが異なるため機能しない
  • 「大きな原則があり、それを具体的な状況に適用する」というモデルは機能しない

■ 8. 中レベルの原則と状況依存性

  • 具体的な状況から「中レベルの原則」を導き出すべきだが、それらは科学における仮説のようなものである
  • 「殺人は常に悪い」ように見えるが、戦争の場合はどうかと問われれば状況が異なると答えることになる
  • 戦争においては敵を殺すことが道徳的に許容される、あるいは推奨されることさえある
  • 「殺すことは悪い」という中レベルの原則は特定の文脈においては適用されない
  • ウクライナでの戦争における具体的倫理は、ガザでのイスラエル軍の具体的倫理とは異なる
  • 単一の「戦争倫理」さえ存在しない
  • すべては状況に全面的に依存しており、判断を下す前にその状況を理解しなければならない
  • そのためには状況の現実に真摯に向き合う開かれた姿勢が必要である
  • 倫理的な判断を深めるためにはイデオロギー批判や人文社会科学の知見を加えることが求められる
  • 原則は存在するが、それらは状況の中で生じる「中レベルの一般化」のようなものであり、常に具体的な状況との往復の中で導き出され修正されていく