■ 1. 導入:スパイの定義と本動画の焦点
- 昨今の日本ではスパイ防止法の制定など、中国やロシアなど国家による日本への陰謀という文脈でスパイが語られることが多い
- しかし本動画は日本の警察と日本という国家に対し、その転覆を企む革命を志向する左翼の反体制勢力、つまり共産主義者との関係に焦点を当てる
- 現代日本において最も多くの人員を擁したスパイはこの2者の間に置けるものである
- 本動画は共産党の秘密党員が官僚機構に工作をかけたり大企業の役員にスパイを送り込むといった左翼から国家に対するスパイ行為を取り扱うものではない
- あくまで本題は公安のスパイになった男の話であり、スパイになるとどうなるのかという内容である
■ 2. 公安警察の概要
- 公安は日本では秘密警察と同義である
- 警視庁公安部に代表される日本の公安警察は予算から人員までそのほとんどの情報が不明である
- 最初期から明確に共産主義革命の阻止を目的として作り上げられた最強の秘密警察である
- 今日に至るまで共産党、革マル派、中核派、その他数々の革命を標榜する勢力はこの公安警察と水面下の戦いを繰り広げてきた
- 最も明確に戦えていたと表現できるのは、実際に警察の方にも秘密党員を送り込んでいた革マル派くらいである
- それ以外の多くの極左は公安警察の一挙手一投足に対して基本的には防戦するのみである
■ 3. 公安調査庁とS工作
- 国家におけるいわゆる秘密工作機関は公安警察以外に2つある:
- 内閣情報調査室
- 公安調査庁
- 公安警察は戦前の特高警察がその由来だが、公安調査庁は同じく戦前の旧内務省の調査局を起源としている
- 戦後それは法務特別審査局と名を変えたが、1950年代からの共産党の武装闘争に対処するため、共産党をスパイによって内から食い破るために法務省の外局として秘密工作を担当する公安調査庁として拡大された
- この過程で1952年に制定されたのが破壊活動防止法(破防法)である
- 公安調査庁の活動はもっぱら情報収集のみで、逮捕や捜索などの司法警察権を持たない
- 公安調査庁最大の特徴は対象組織に対するスパイ工作による諜報活動である
■ 4. スパイの種類と規模
- 権力が革命等破壊組織の内部へスパイ工作を行う時、スパイには3つの区分がある:
- その組織の構成員になっているものを協力者として獲得する
- 適当な時にはホームレスなどの民間人をスカウトして組織に入れさせる、関わらせる
- 公安警察官自身が身分を偽装し、公式記録からその存在自体を抹消して年単位の時間をかけて組織の中枢に潜入する
- 最も多いのは1と2のケースである
- 2のケースのスパイは公安用語ではSと呼ばれる協力者である
- 1960年頃の国会答弁でSの数を推定させるデータが示された:
- 警察庁から支払われたSへの謝礼金が2億6200万円
- 公安調査庁から支払われた謝礼金が約2億円
- 合わせて4億6200万円(1960年大卒初任給が1万円台の時代)
- 1987年の公安調査官の総数は1639人であった
- 1992年度の予算総額は166億円、うち公安調査官の活動費が25億円であった
- このうち大部分はSへの報酬として現金で用意されるものである
- 公安調査官当たり3人のSを雇っているとすると、全国に権力のスパイは5000人近く存在することになる
- 公安警察のSとも合わせれば当時のスパイは1万2万という数の規模になる
- これだけの数の人間が金のためにあるいは何らかの弱みを握られて国家の目となり耳となって極左だけでなく政党や労働組合の中にさえ根を張っていた
■ 5. S工作の歴史的背景
- 国家がスパイという存在に固執する理由は、これこそが革命勢力を内側から破壊する最も有効で最も安上がりな手段だからである
- S工作を初めて近代的に活用したのは19世紀中頃、帝政ロシアの秘密警察オフラーナであると言われている
- ロシア革命以前最大の社会主義政党であったエスエル(社会革命党)はオフラーナが差し向けたスパイ、エヴノ・アゼフによって壊滅的な打撃を受けた
- 日本でも特高警察によるスパイMが戦前共産党の中枢を支配し、その下で赤色ギャング、戦闘的技術部などあらゆる計画を立てて人民の間に共産党は怖いというイメージを定着させることに成功した
- 戦前の共産党はスパイ以外の頭が悪かったのでスパイを差し込むまでもなく既に壊滅していたが、権力にとって共産党がなくなるのは都合が悪かった
- そのためボロボロの状態で形だけ再建されていた党にSを内部に潜り込ませて手取り足取り育てさせ、ガリ版刷りを活版印刷に改めさせて現在の価値で月数億円の常時収入を得るというにまで導いた
- エヴノ・アゼフは社会革命党戦闘団というテロ組織の指導者となり、内務大臣やモスクワ総督のセルゲイ大公から皇帝ニコライ2世の叔父に至るまで数多くの暗殺を手掛けた
- 日本共産党で天才と呼ばれた男も、ロシア革命で最も革命的と評されたテロリストも、その両方が権力機関の秘密工作で送り込まれたSによるものであった
- 日露戦争において明石元二郎がロシアの不満分子を糾合し第一次ロシア革命を誘発させた際、エヴノ・アゼフにも接触し資金援助を行っていた
- 1970年代には日本共産党民青の愛知県委員長が10数年に渡り2000万円以上を警察からもらっていたというスパイ摘発事件もあった
- 最も有名な例はマリノフスキーである
- 後にロシア革命を成功させたレーニンが率いたボルシェヴィキの最高指導部にさえスパイはいた
- しかも国会議員という立場でレーニンは最後の最後までマリノフスキーというスパイを信頼のおける男だと評価していた
- 革命が成功しオフラーナの秘密文書が公開され、ついに彼が自白するその最後の瞬間までレーニンですらスパイの事実に気づけなかった
■ 6. Mの経歴:英雄への道
- 男(M)は1947年に生まれた
- Mは日本の新左翼において紛れもない英雄だった
- Mの戦いの起源は1960年代高崎経済大学から始まる
- この大学は元々マルクス経済学を軸とする中央開の一流大学だったが、指導局はそれを嫌い、わずか5年で学生募集を停止したという経緯がある
- 戦後最大の労働争議と呼ばれた後方闘争で鎮圧のために米軍を投入したような人物らを教授陣に招いた筋金入りの反共大学として再出発した
- 指導局と地方ブルジョアジーによる定員を倍増させるほどの不正入学とこれを基盤とした右翼的な学内支配に対し左翼青年たちは怒り行動を開始した
- 1962年にはまだ成立間もない組織の機関紙の読者が学生の中に現れた
- 1966年4月、Mはストライキに突入した闘争再生期に高崎経済大学に入学した
- いわゆる全共闘時代の出来事で、高崎は全国でも1番を争うほどに早く学生運動が巻き起こった
- 1967年時点で「挨拶の森」という映画にさえなっている
- Mは生半可な学生運動が正義心に燃えてスクラム組むだけでは勝てないと悟り、革命党となる強固な組織にしか自分の未来は託せないと決意し、一早く組織とある革命党の構成員となった
- 1967年の10・8羽田闘争から始まり、組織がその動員力を2倍3倍10倍へと増やしていく激動の7ヶ月、彼は各地を転戦し続けた
- 1968年、彼は再び高崎経済大学の闘争に戻り、党の人間となって破壊された自治会の再建に注力した
- 党とMとの対立はすでにこの頃から始まっており、実行委員と党の指導方針がぶつかった時、彼は党席を一時離脱してなお自分の方針を貫くというある種敵対的な行動を取った
- 1971年、国鉄高崎地方の戦闘員初期の誘いに応募しようと相談したら当時の地区委員長に反革命と罵倒されたという記録を彼は残している
■ 7. 渋谷暴動事件と投獄
- 1971年11月14日、渋谷暴動事件が起こった
- 組織が指導する内乱を起こした東京大暴動闘争で、21歳の巡査がここで殺害された
- Mはこの時、我々の教科書で指折り数にも匹敵する戦果をあげた
- この闘争に参加し、その上で1975年闘争の現場部隊責任者として巡査殺しの暴力行為等処罰法違反共同正犯で逮捕された
- 殺人罪で起訴されたのは彼以外にも7人、さらに16人が起訴された
- 実際に参加した人数から検挙されたものの数、そこでギルティがたった23人という数字に収まったのは組織があるからこそである
- 最も重要な問題は彼は現場不在、実行行為なしである
- そもそも参加していないし、自らが担ってもいない渋谷の現場部隊責任者としての罪を着せられ、公判途中でも思ったようなことを言えず組織に振り回された
- 渋谷闘争をやり切って懲役13年という勲章をもらって獄に入ったことは、極左からすれば英雄と認められる闘争戦士以外の何者でもない
- しかしそれらは全て嘘っぱちで、そもそもやり切ってもやってもいないのに、組織は戦いのシンボルとして自分を祭り上げた
- 捕まっている間に自分の原点でもあった群馬の学生運動は壊滅した
- 1991年7月、未決を差し引いて満期出所を果たし戦列に復帰した彼は43歳になっていた
■ 8. 出所後の困窮と組織の堕落
- アイデンティティも壊れた
- ある意味では無実の罪で獄に入ることで本来担わされていたであろう対革命戦争(いわゆる極左の内ゲバ、毎日のようにリンチや爆弾闘争、火炎瓶を大量生産した二重革命戦争)の参加を回避できたという見方もできる
- 若者はおっさんになってしまった
- 出所するなりMはいきなり生活に困窮した
- 家賃を援助したのは彼の兄だった
- その兄とは後に自民党総裁となる谷垣禎一の親友でもあった
- 大学時代の同期同級生同士で、財務大臣在職時にはなんと極左であるその弟Mとも谷垣は会ったことがあるそうである
- 本来であれば勲章同然、組織に厚遇されて学生からは尊敬されて、精神的な楽や必要な苦労はともかく金銭面で革命戦士が困ることなどはあってはならないはずだった
- しかしMが目にしたのはある種の組織の堕落した姿だった
- ソビエト連邦が崩壊した1991年、組織もその情勢判断、路線方針を巡って激しい混乱をきたしていた
- 70年代から長く続いてきた内ゲバ(同じ左翼から分かれ、そして全人民の敵へと突然変化した革命を裏切った双子の兄弟ファシスト革マルを骨すら残さず完全殲滅するための革命戦争)は、両組織の指導者トップによる秘密会談で手打ちとなった
- 組織は大衆路線に舵を切り、革命軍は縮小され、銃を握った戦士たちはPTAや労組を追いながらも続々と復員していった
- 武装闘争を放棄するための一時の時間稼ぎ、財政破綻こそが新路線最大の理由、労働組合の利権を避ける以上は仕方ない、など指導部の説明は各々言うことが異なった
- 出所してばかりの浦島太郎状態のMを気にかけるものは少なかった
- 一方Mは少ない援助から家庭を持ちアパートを借りて新しい生活を始めた
- 子が生まれると途端に家計は破綻寸前、援助も次第に亡くなり、組織は組織で新路線を巡る内部闘争で機能不全に陥っていた
- 最高指導部が贅沢の限りを尽くしていたことも後に彼を裏切らせた原因である
- 数年前の天皇決戦時から組織に集められたカンパは1度に4億を数えることもあった
- 最高指導部の1人はそのうち1億を中抜きし、九州に別荘を作り、愛人を囲わせて新幹線で何十回も往復した
- そういう事実もあくまで当時は噂に過ぎなかったがMの耳に入るところとなった
- 彼は7年間娘と妻との3人で困窮という地獄を味わった
■ 9. 公安調査庁との接触
- 2001年という21世紀に入っても状況は変わらなかった
- Mはある日、いつものように集会から帰宅する帰り道、電車の中で何者かにつけられていることに気づいた
- 即座に隣駅のホームで交差し、誰だと尾行者に向けて問いただした
- 男は「恐れ入りました。機関紙の読み方をお尋ねしたいのです」と言った
- Mは「権力か」と答え、男はそれに頷いた
- このくらいの接触はよくある話で、公安は組織の中で不満な環境に置かれているものを見つけ出し手懐ける
- 自らがそういう対象だとされたことに腹立たしさを覚えたMは尾行するなと言ってその場を立ち去った
- しかし生活には困窮している
- 程なく2度目の接触があり、「お嬢様に何か買ってあげてください」と無理やり握らされた封筒には10万円が入っていた
- それからしばらくしてMの自宅である都営住宅の一室で新聞を読んでいるとインターフォンが鳴った
- 覗き穴の向こうの男は小さくしかし伝わる声でMに喋った:「警察ではありません。法務省のものです」
- 彼に接触したのは公安調査庁だった
- 彼は自分のアポなし訪問からいつの間にか定期的に公安調査庁と密会する仲になってしまった
- 品川プリンスホテル、高輪プリンスホテル、京王プラザホテル、個室のある高級食堂でその都度場所を買えながら毎月金をもらった
- 基本は1回に月10万円、たまに一時金と称して5万円から10万円さらに上乗せされることもあれば、誕生日娘の入学祝などで2つの封筒をもらう日もあった
- Mは途端に人間的な生活を取り戻すようになった
- 公安調査庁から渡された総額は実に2500万円である
- しかしそれは10年という期間を通してのもので、もちろん非課税だが年で割ればそれしか収入がないのなら市民社会では大した額ではない
- それでも左翼社会では信じられないほどの大金だった
■ 10. スパイ活動の深化
- 最初は必要に迫られて重要な情報は話さず、むしろ利用してやると思ったかもしれない
- しかし極左は権力とのいかなる会話も、取り調べでの世間話でさえ同志への裏切り、階級的犯罪として厳しく取り締まる
- 金銭の授受がバレれば終わる、引き返せない状況で公安調査庁は会うたびに封筒を厚くさせていった
- こうして英雄は存在論的に転落した
- 裏切りは蜜の味でもあった
- スパイ活動は常態化し、Mが公安調査庁にとって最も価値のある情報源として認められるまでにそう時間はかからなかった
- 彼は自分の持つ情報量の豊富さに担当者が目を白黒させながら目を取る姿に酔っていたのかもしれない
- 一回りも2回りも年の離れた若造がスーツを着てありがたがって話を聞いてくれるどころか質問さえ止まらない
- 後輩を指導して謝礼を受け取るという感覚に近かった
- 獄中で失った自尊心、出所後に組織の中で感じた疎外感、それら全てを埋め合わせるかのように、彼は権力の前で先生を演じ、その役割に没入していった
- 当時公安調査庁が最も知りたがっていたのは組織は本当に労働運動1本で行くのかそれともゲリラに戻るのかという路線方針だった
- Mは彼らが欲しがる情報を資料と共に的確に提供した
- 三里塚闘争や11月集会の正確な動員数、中央による内部総括、そして労働運動の動向
- 特に韓国の民主労総との国際連帯の進捗には異常な注目が示されたらしい
- 疎外感を感じてはいても彼自身組織の指導部トップオブトップではないにせよ最高級の機密を共有する1人であった
- 日本最大級の極左暴力集団の内部情報はこの頃からMを通して権力に筒抜けとなっていた
■ 11. 関係継続の試みと限界
- 2005年、Mは大動脈瘤という大病で倒れた
- 党の活動の第一線から引かざるを得なくなった
- 普通ならここでスパイとしての価値はなくなるはずだが、権力は彼を手放さなかった
- 公安調査庁の担当者はなんと彼が入院している病院の外来まで姿を表し見舞いと称して接触を続けた
- 活動の現場から離れた彼に公安調査庁は組織から分裂した対立党派のウェブサイトのコピーなどを渡し、次回会う時にその感想を述べさせるという形で関係を維持した
- 権力御用達のコメンテーター、適当な感想でも何も知らなくても関係なく会うたびに10万円が渡され続けた
- しかし裏切るストレスというのがあった
- 2011年には重大な癌が発覚し、3度の手術を受ける
- Mはさすがに療養期間に関係を断ち切ろうとした
- 自分の持っている情報量の豊かさと分析が世論、そして国家権力をも動かしているという実感に酔いしれつつも、若僧が質問する際鞄のように覗くファイルをちらりと見ると酔いは覚めた
- 議長副議長書記長政治局員に始まり地方委員会書記、専従本部員に至るまで氏名経歴本籍現住所など多くの秘密はすでに権力の手元にあった
- 自分がしていることの重さ、その裏切りに彼自身が心身ともに耐えられなくなっていた
- だからもう今回限りにしたいとMは担当者に切り出した
- しかし答えは上に相談するから待ってくれというだけ
- 当時の公安調査庁は内部の不正経理問題で揺れており、担当者も身動きが取れなかった
- 権力側の都合が彼の引退を許さなかった
- Mは当面の間会うだけで十分だからという具合で結局最後の最後まで毎月の密会を続けてしまう
■ 12. スパイの露見
- 2012年の秋、終わりの始まりは最も身近なところからやってきた
- 彼の妻が隠していたはずの預金通帳を突きつけ、なぜこんなにお金があるのかとその不自然な金の出所を厳しく追求し始めた
- 65年の人生が音を立てて崩れる瞬間、彼は適当な嘘をついてその場をしのいだが、生涯家庭をしのぎ切ることまではできなかった
- 2013年3月末、Mは改めて終わりにしてほしいと懇願した
- 公安調査庁はあっさりと許可した
- 2013年4月24日、英雄と呼ばれた男の長期に渡るスパイ活動の最後の仕事が終わった
- Mのスパイ活動は即座に露見した
- 2013年5月8日、彼は組織が派遣した4人の男により確保され、以後28日間に渡り、反革命分子として監禁下に置かれた
- 4度目の癌摘出手術を直前に控えながら彼は革命党によって逮捕された
- 逮捕の数日前には組織の公然拠点本社に警察からのガサ入れがあった
- 家宅捜索の間、組織のトップ書記長同士は例によってあの英雄スパイMの名前を出して仲間と共に小さい声で彼の健康問題を案じていた
- そこで公安は振り向いて言った:「なんだお前ら?Mがスパイだって知らないのか?」
- 暴露の発端は意外なところから来るものである
- 要は公安にとってはもうMからの情報は出尽くしていてスパイとしては様詰みになった
- だから後の処理はあなた方のお好きにお任せしますよと、そういう意味で丸投げした
- 権力自らのゴミ捨て、そして素早い不良品回収としての革命党によるMの逮捕である
■ 13. Mの冤罪主張
- ここまでの内容は全て組織の内部で秘密に回覧されていた文書に記載されているもので、スパイM自身の自白調書である
- M自身は公安調査庁から28日後に隙を見て逃亡し、命が惜しくて警察に駆け込んだという風に組織は記している
- スパイMの冤罪説が巷間噂されるのはそれから約1年半後のことだった
- 2014年12月逃亡中のスパイMは本人の名義の声明を発行した
- その中で彼は「私は断じてスパイではない」と革命党による弾劾を全面否認し、党中央の発表は完全な捏造であると主張した
- 事態の経過は彼によれば次の通り:
- 2013年5月8日突然私の杉並区内にある自宅に4人の男が押しかけ組織の高円寺事務所に連行された
- その後査問が始まった(査問というのは反革命分子の取り調べを意味する左翼社会の言葉)
- 自白に関してMは警察同然の作文だとその文書の列を糾弾した
- どうやら査問中机の下に隠しマイクが仕込まれていたようで、音声を録音しただけの署名すらないものだったようである
- 逃走の経緯について彼が脱獄したのは6月4日、公安調査庁から28日目の出来事らしいが、場所は組織の事務所ではなく三井住友銀行西荻窪店らしい
- JR西荻窪駅南側の繁華街のど真ん中にある場所である
- Mの全財産を党が接収するために企図された当初のスパイ行為という換金目的からも激しく逸脱した略奪行為だが、組織はこれに失敗した
- 「貯金庫の解約手続きを取って庫内にあるものを全部取り、西荻窪、荻窪、吉祥寺の金融機関で解約と送金手続きを取る。明日はできるところまでやる。明後日以降も継続する。7日は早朝に車で名古屋に向かい、名古屋にある貸金庫から登記謄本など取り出してその日のうちに帰京する」と前日Mに指導部はそのように決定を伝えたらしい
- Mは素直に投降したと思っての決定だったが、貯金庫なんて逃げようと思えばすぐ逃げられる
- 銀行は独自判断で警察を呼び、Mはその隙に逃げ延びた
- 直ちに組織政治局は直轄の追跡の専門部隊を動員し、Mを追った
- 自宅、兄弟姉妹親戚から全ての銀行、病院知人に至るまで90歳の老人にまでMが1mmでも関係するところの全てに追跡行動がなされた
- もちろんここでMの娘なども人質に取られた
■ 14. 組織の弾劾とその問題点
- 実際Mの言う通りこのスパイ摘発事件には公安警察の密告、そして彼個人の不審な財政という状況証拠くらいしかなく、物的証拠は1つも上げられていない
- 根拠となるのは自白調書だが、法的には組織のようなやり方では証拠と認められない
- なお正確には公安の密告はその後夫の堕落を嘆じた同じ党員である妻の証言に変化した
- Mが白なのか黒なのかということは組織声明文のその後半部を読めばある程度は判断できる
- 組織の声明では「の革命に敵対したK・YI(これは仮名)、F・S最悪の分裂主義者である塩川一派の塩川M・O(過去これは仮名)、さらに女性分子などと陰に陽に結託し権力の意を挺して彼らを先導しつつ党の分裂解体を策動、反党分子につるむ反党分子とも新たな党破壊工作に乗り込んでいった」と記されている
- 「今なお党破壊のために蠢いているやからは己の行動がどれほど権力を利するおぞましい反階級的な犯罪行為であるかを今こそ思い知るべきである」
- スパイそれ自体というよりもスパイが女性分子とつるんで反党行動したことをより強く糾弾しているのである
- 当時党内にはまるで昔の共産党と同じようにスパイと粛清の嵐が吹き荒れた
- 中央の指導部は新たに3人組と称される勢力に掌握され、反発するものは党の革命に反対するものとして次々摘発されていった
- 私もまたその例外に漏れることはなかったという風にMは自らの冤罪を主張した
- 党査問の目的は明確に政治的なものであった
- そしてその追及が行き詰まり、Mが党中央への失望を明確に表明する意見書を出した後、事態は大きく転換した
- 3人組の1人A書記長はこれは再生不可能だなと言って党内政治活動の問題からM個人の不可解な財産問題へと移行したというわけである
- 元々当事の真偽チェックは行わない
- しかし組織に常に敵を作り出し、反対意見を反党行為やスパイと短絡的に結びつけて粛清する手法はかつての日本共産党、そしてスターリンのソビエトと全く変わらない話である
- そういう左翼スターリニズムの病を批判して現れた極左でもその宿痾には勝つことはできなかった
- また面白いのが労働者階級出身の妻が夫のスパイを見抜いたという話を組織は美談としている点である
- 革命のためならもちろん非を捨てて反動に堕ちた家族は攻撃の対象にしなければならない
- そのために非を捨てたというところを偉いと褒めまくるのである
■ 15. 総括:スパイと組織防衛
- どこから始まった話でどっちが黒なのかどっちが白なのかということは分かりかねる
- ただ1つ言えるのは帝政ロシアの秘密警察オフラーナという権力によるスパイは同志レーニンのボルシェヴィキにも確かにいた
- 例えば彼がプラハで開催したとある秘密幹部会議では28人の出席者のうちなんと4人が秘密警察のスパイであったことが後に判明している
- 最初の合法的な機関紙「ナチャーロ」の出版社にしても当局提供の資金でそれを賄っていた
- 何より最も重要なその組織の最高指導部にさえもマリノフスキーというSがいた
- しかしレーニンは最後まで疑心暗鬼に陥ることなく組織の中枢にスパイを抱えたまま革命を成功させた
- レーニンが大規模なスパイ狩りをもし革命前に起こしていたならば歴史は大きく変わっていたのではないか
- 確かに噂は流れていた
- 公安警察が組織の面前でMをスパイと言い放ったようにマリノフスキーがスパイであるということは何よりも帝政の秘密警察自体からさあ殺してくれと言わんばかりに流布されていた
- ストレスから異常行動を繰り返すようになっていたマリノフスキーを当局が切り捨て解雇させたその直後からレーニンの党内にはスパイ情報が流され続けていた
- しかしレーニンはそれを鼻で笑い、「そういう弾劾は全く馬鹿げている」と言った
- 実際にはマリノフスキーは本当にスパイだったが、もしそうではなかったらというのを考えるとこれは本当に怖い話である
- 公安警察の言うことに少しでも反応してしまえば組織内部は疑心暗鬼に陥る
- さらにそこに権力闘争みたいな進行中の別の問題が並立していれば不安に駆られて嘘の証言をするものだって現れるかもしれない
- しまいには無実の同志にスパイ分子という死刑相当の濡れ衣を着せている革命党という最悪の状態が出現する
- レーニンはおそらくそういうような状況を回避したかったのだろう
- スパイもスパイで時には金以上の利益を得ることだってある
- スパイ候補となる対象はまさにMのような組織の中で不遇な立場に置かれていることが多い
- もし黒説に基づくなら要するにMは組織内における精神的な証人の枯渇から唯一得意げに物を話し教え人に自慢できる瞬間を求めて公安との内通を続けた
- おそらく金をもらうことよりもそれは楽しいものだったのではないか
- しかしこれでは悲しい
- 実際には公安警察と裏で内通し続けることによりただのヒラだった存在が権力からの指示や資金提供などで急激に組織の中で成り上がっていく、そういう育成ゲームのような図式も成立することがたまにあるなんて噂されていたりもする
- 公安からの謝礼金は組織によって異なり、中核派外郭やノンセクトに対しては飲み食いだけというのも普通で、大体1回1万から3万というのが平均的なのではないか
- それも超のつく大企業の超のつく幹部でもない限り毎月2回もあったりなんていうことはない
- Sの報酬は話にならないくらい安い
- だってSになるようなやつはほとんどは報酬もらわなくても自ら警察に話し出すようなやつばかりだから
- また基本的に打ち筋は萌えというのは特に組織の内部の粛清というのは、洞窟が全部折れてるのに心臓発作で倒れたみたいな話も有名だが、人手に出てもまともな捜査はされない
- Sが絡む事件の場合その真偽はSへの公判査問に関して直接の逮捕者が出たかどうかというのである程度推測できる
- 結論としてこれは一般論でもあるが身内にスパイがいない前提で動く組織は潰れる
- 高度な秘密組織、日本で最も水準の高い公安警察で伝統、その情報は革マル派という極左に筒抜けであった
- 自衛隊に共産党員が普通にいたりするのもあえて公然に入れることで管理している
- 自衛隊内部での情報流通経路を把握できるから、弾圧せず公然化することで危険な雰囲気のやつはすぐに見つかる
- 出世させなければ何の心配もない
- こういう守口合理的な取り扱いを権力よりも強くそして深くできていたからこそレーニンのロシア革命は成功した
- 自分が組織を信じきれるか、そして組織が己を信じきれるかどうかが全てであるという至極普通の話でもある