■ 1. ロシアによる日本の選挙介入
- 2025年7月の参院選で政府や一部メディアが「ロシアによる選挙介入という認知戦」の展開を報じた
- 長迫智子氏:政府外からコメントできる範囲としてはあくまでも先行研究やSNS上の動向など公開情報からの「推測」になる
- これまでのロシアの選挙介入の前例やロシアのボットネットワークがどれだけ日本で広がっているかなどの分析がアメリカのシンクタンク「大西洋評議会」内にあるDFRLab(Digital Forensic Research Lab)からも出ている
- そうした調査結果の蓄積から「選挙時にこうしたボットが活発に活動し選挙に影響を与えようとした」と判断できる蓋然性が非常に高い状態にあった
- 政府からも青木一彦副官房長官(当時)や河野デジタル大臣(同)により選挙への介入を警戒するコメントが発表された
- 青木副官房長官は7月16日の記者会見で外国からの選挙介入について「我が国も影響工作の対象になっている」との認識を明確に示していた
- その後プラットフォーマー側にも照会が行われた上でいくつかのアカウントが停止されている
- こうした動きからロシアが工作に関与していると判断し得る確度の高い情報があったのではないかと考えられる
■ 2. ディスインフォメーションの定義
- 認知戦においては偽情報という言葉が政府やメディア等で使用されるが、実態を考慮すると「偽」の情報だけに警戒すればよいという誤った印象を与えてしまう訳語だったのではないかと個人的には考えている
- 影響力工作で多用されるディスインフォメーションはフェイクの情報も含むが、事実である情報が誤った文脈で用いられたり、ハッキングによりリークされた機密情報など表に出るべきでない情報が利用されたりすることもある
- そのためディスインフォメーションを日本語で表すなら「歪曲された情報」といったニュアンスがより正確ではないかと思う
- 諸外国での用法を総合するとディスインフォメーションは社会・公益への攻撃を目的とした害意のある情報で、情報自体が偽であるだけでなく、情報自体は真であるが誤った文脈や操作された内容で拡散されるものなど真偽どちらもありうると定義できる
■ 3. インフルエンサーの利用
- 現時点ではボットネットワーク周辺で拡散に利用されているアカウントがロシアから金銭の支払いなどを得ていたのかは分かっていない
- 単純に金銭的なインセンティブからインプレッションを稼ぎやすい話題を拡散していただけのアカウントもいると思われる
- ただし過去に南米でロシアと中国が連携してディスインフォメーションを広げようとした際にローカルなインフルエンサーに資金を提供して拡散させるという事例が確認されている
- そのため日本でも同様の事例が既に存在する可能性はある
- 中国の例で言えば台湾で活動している大陸系のインフルエンサーに投資するあるいは愛国的なネットユーザーたちがインフルエンサーにスーパーチャット(投げ銭)をしている
- 2019年の調査では台湾のトップ10に入るインフルエンサーのうち7人がそうした中国からの投資や意図が疑われるような不自然な投げ銭を受けていたという調査結果もある
■ 4. 認知戦の広がり
- 2016年以降活発化してきたと言っていい
- ロシアは当初自身の権益や影響力に関わる欧米やアフリカに対する選挙干渉に力を入れていた
- そしてロシアがサイバー空間で影響力工作を拡大させているのを見て中国もその手法を学び、これまでのプロパガンダ的発信だけでなく社会の分断を煽る工作も採用して実践するようになった
- もともと中露は軍同士の交流も深く人員を派遣するなどして連携を強めてきている
- 中国はインド・太平洋側に注力していて特に中国が「核心的利益の中の核心」と位置付ける台湾は工作のメインターゲットとされている
- 認知戦というとインターネット空間やSNS上でだけ行われるというイメージだが実際にはメディア買収からサイバー攻撃、物理空間での体制破壊的行動の煽動までを含む広い範囲で展開されている
■ 5. 中国による福島原発処理水に関する認知戦
- 代表的な事例としては2023年の福島原発処理水排出に関するディスインフォメーションキャンペーンがある
- ディスインフォメーションの拡散だけでなく処理水(treated water)を「核汚染水(nuclear contaminated water)」と呼ぶなどといった印象操作も行われた
- 放水以前の温度変化による海面変化の画像を悪用して「汚染水の影響がこんなに広がっている」というようなフェイク画像などが中国で作られ同様のディスインフォメーションが日本にも侵入され拡散されるとともに同じ中国語圏である台湾でも広く拡散された
- しかも中国はSNS内の情報拡散だけでなく太平洋島嶼国に対して現地の活動家を扇動して「汚染水放出反対デモ」を組織していたという報告もある
■ 6. 台湾のオードリー・タンの対策
- 認知戦への対策が進む台湾はIT大臣を務めたオードリー・タンが音頭を取って「2-2-2の原則」を推進してきた
- 誤った情報や害のある情報が確認されてから「20分以内」に「200字以内」で「2枚の画像」を付けた形式で迅速かつわかりやすい発信で有害情報を打ち消す運用を行政府は求められている
- また2019年からLINE Fact Checkerという取り組みが始まっていてユーザーが疑わしいと思う情報をLINEで質問すると即座に「フェイク」「真実」「一部真実」という判定を下してくれる
- もちろんここまでやってもすべてのディスインフォメーションを打ち消せるわけではないが政府やプラットフォーマー、ファクトチェック団体等がこれだけ積極的に協働しているという姿勢をみせることによって国民の理解も高まっている
■ 7. JICAアフリカ・ホームタウン構想の誤情報
- 影響力工作かどうかは明らかではないが最近の日本でもアフリカ開発会議(TICAD)に関連して「JICAアフリカ・ホームタウン」構想に関する偽・誤情報が大量に拡散された
- 「ホームタウン」という言葉が移民促進事業を連想させまたナイジェリア政府のプレスリリースやタンザニア現地報道が特別ビザ創設など誤情報を含んでいたことで国内で大きな反発を呼んだ
- JICAもこれらが「誤った情報である」ことは発信・反論していたがSNSで逐次訂正情報を出すなど後手に回ってしまい偽・誤情報対策には不慣れだったと思われる
■ 8. 認知戦という概念の問題点
- 認知戦という概念が広まったことで意見や認識の異なる相手を「お前はロシアか中国の手先だろう」と決めつけるような人たちも出てきてしまった
- 認知戦では社会の分断を深めることも狙いの一つであるにも関わらず認知戦の知識のある人たちによってむしろ分断が広まってしまう皮肉な状況となっている
- 本来あるアカウントが外国勢力のボットなのかどうかというようなことは政府やプラットフォーマーが技術的・政治的にアトリビューション(帰属の特定)を行って判断すべきこと
- ユーザーは発信している情報の真偽や文脈、ナラティブに注目すべき
■ 9. ディスインフォメーションの真偽の割合
- ディスインフォメーションは日本では「偽情報」と訳されることが多いが実際には社会に対する攻撃のために意図的に流される情報の7割が真実、3割が虚偽という割合だと信憑性が出やすく信じられやすいとされている
- ロシアによる情報戦・認知戦に関する学術的発信でもディスインフォメーションを「嘘と真実の割合を注意深く調和させること」と定義してもいる
- ディスインフォメーションを丸ごと「偽である」と認識してしまうとむしろ部分的に正しい情報を指摘されて「フェイクニュース扱いしているがこれは事実だ」と言われる余地が生じてしまう
■ 10. 生成AIによる動画の悪用
- 技術面で言えばやはり動画中心のSNSの登場、インフルエンサーによる動画配信の活発化、ショート動画などの流行によりこれまで以上にエモーショナルなアテンションエコノミーが拡大してきた
- また生成AIの進展によって大量かつ多言語のディスインフォメーションが作られやすくなった面もある
- ロシアの「ドッペルゲンガー」というキャンペーンではAIを使ってウクライナ支援を止めさせるためのナラティブを広める画像が大量生成され拡散された
- 例えばハリウッドセレブの画像をAIで加工して「ウクライナ支援にこれだけの巨額のお金が使われている。あなたは疑問に思いませんか」というようなことを言わせているもの
■ 11. 陰謀論の兵器化
- 2021年の米議会襲撃には中心となったQアノングループへのロシアの関与も指摘されていたがこの前後から中露は陰謀論的なナラティブが認知戦に有効であることを認識し「陰謀論の兵器化」に乗り出しているという分析もある
- Qアノンのような陰謀論を思想の中心とする人々がその陰謀論的世界観をベースに何らかの体制破壊的な行動に出る時にその行動を中露の認知戦が後押ししている可能性がある
- こうした動きは今後日本でも警戒すべき
■ 12. 対策:プレバンキング
- 現状では対象となる人のリテラシーによってアプローチは変わってくるという分析がなされている
- そこまで陰謀論に染まっていない一定以上のリテラシーを持つ人にはファクトチェックや政府および公的機関の公式発表を随時確認してもらうのがいい
- 若い世代へのリテラシー教育も効果があるとされている
- ファクトチェックが事後の対応となるため効果が薄いという指摘もあり現在では「プレバンキング」という事前の手法も重視されている
- プレバンキングとは「認知戦のテーマとして狙われやすい話題やナラティブこれらを拡散する典型的手法を事前に知っておくこと」で騙されることを避けることも有効
■ 13. 怒りの感情の利用
- 認知戦ではわれわれの「怒り」の感情や認知バイアスを利用することで情報の拡散を図ると分析されている
- 心理学的に「怒り」の感情はディスインフォメーションの拡散行動を促進するという先行研究もある
- そのため何か怒りを覚えるようなニュースや情報に接した際にはいったん自分の情動を顧みて感情の赴くままに拡散や発信をしないことを心掛けるだけでも効果がある
- ある意味ではアンガーマネージメントがSNSを使う際にも必要となり認知戦防衛の一助ともなる
■ 14. 社会的アプローチの必要性
- 反ワクチンであれディープステート論であれそうした情報に深入りしてしまう人は社会に対する不満や不安を抱えているかたも多いと考えられている
- そうした人に「あなたは間違っている」「正しい情報はこれだ」と押し付けてもあまり効果がなくむしろ意固地になって余計に別の情報を受け入れなくなってしまうことさえある
- そのような認識レベルが深刻である方々には無理やり正しい情報を押し付けるのではなくなるべく別の楽しみに誘導する、孤立している人であるならばコミュニティとして受け入れるなどの心理的・社会的なアプローチも必要になる
- 最近の研究では陰謀論者をAIチャットボットと対話させると陰謀論への確信度が減少したり信念を変化させることが出来たという研究もあるのでそうした技術的アプローチにも期待できる
■ 15. 結論
- 認知戦下で狙われやすい分断を社会に生じさせないためには政府やプラットフォーマーの対応だけでなくSNSユーザーの方々のユーザーの方の振る舞いやメディアの報道のあり方、リテラシー教育などあらゆる角度からの対策が求められる
- 情報戦・認知戦という観点ではサイバー空間に接続したときに市民一人ひとりが戦場に立っていることとなり国民も政府も含めすでに認知戦の文脈では有事のさなかにあることを意識した対応が必要