■ 1. 令和人文主義の定義と特徴
- 「令和人文主義」という言葉が最近注目を浴びている
- 哲学者の谷川嘉浩が提唱した言葉である
- 「読書・出版界とビジネス界をまたいだ文化的潮流」とされている
- 担い手として挙げられる人物:
- 株式会社COTENの深井龍之介
- 株式会社baton(QuizKnock)の田村正資
- 文芸評論家の三宅香帆
- 広告会社勤務で大阪大学招へい准教授の朱喜哲
- 哲学者の戸谷洋志
- 元スクウェア・エニックスのシナリオライターで作家・書評家の渡辺祐真
- 漫画家の魚豊
- 特徴として挙げられる点:
- 文体が上の世代と全然違う
- 受け手は学生よりも会社員(新しい知の観客を意識した語り方)
- 多メディア展開
- 反アカデミズムではない
- 教養主義から単なる人文知へ
- SNSやポストトゥルースを意識した自己論や社会論
- 言葉への強いこだわり
- 筆者が特に注目する四つの特徴:
- 受け手は学生よりも会社員(新しい知の観客を意識した語り方)
- 反アカデミズムではない
- 教養主義から単なる人文知へ
- SNSやポストトゥルースを意識した自己論や社会論
■ 2. 人文学における「会社員」と「市民」の区別
- 従来の人文学では「会社員」という存在は未熟なものとして相手にされていなかった
- 学生は大人になって国家や社会を構成する「市民」になることが期待されていた
- 「市民」の定義:
- 自分がやったことの法律的な責任がとれる存在である
- 事故を起こせば損害賠償を払わなければならないし、逆に事故を起こされれば賠償責任を相手に問い、裁判を起こすことができる
- 選挙で良い首相を選べば恩恵を受けるし、悪い首相を選べば害を被る
- すべて「あなたの責任です」と言われ、「そうです。私の責任です。なぜなら、私が自分の意志に基づいてやったことだから」ということが求められる存在である
- 法律を主体的に運用することが求められる人たちのことである
- 「会社員」の定義:
- 企業という「法人」に勤める「履行補助者」という位置づけである
- 業務命令を下す企業経営者の手足であり、「メンバー」とも訳される
- 会社員として経営者に与えられた権限をはみ出ない限り、法律的な責任を問われない
- 業務上のミスを犯せば上司から怒鳴られて鬱になるかもしれないが、法律上の責任を問われる可能性は非常に低い
- 損害賠償請求は勤めている企業(法人)に対して行われる
- 選挙での投票も「会社員」として行うことは建前上避けるべきだとされている
- 企業という「大きな市民」(法人)の手足という位置づけであり、市民社会や国家を構成する主体とはみなされていない
- 従来の人文書は読書を通して学生を「市民」に成熟させることを促してきた
- これがいわゆる「教養主義」である
- 誰もが「市民」であることを自覚して法律的な主体としてふるまうことで賢い国家による良い統治がもたらされるという考えが近代主義の前提である
- この考えを体系化したのが哲学者のフリードリヒ・ヘーゲルである
- 人文学は労働者の「会社員」ではなく「市民」としての側面に重点を置いて育もうとしてきた
- 人文学は一時期まで経営学ではなく労働運動との関係が緊密であった
- これは「会社員」が労働運動によってはじめて企業内部で法権利主体である「市民」として活動できたからである
- 「市民に向けて書く」という行為は中立的な行為ではなく、実践的な行為(パフォーマティブな発話)である
- 読者をある主体(市民)として想定することで、逆説的に読者はそのような主体(市民)として育っていく
■ 3. 歴史的経緯①グローバル化
- 良い市民・良い国家・良い統治を目指す「教養主義」を突き崩す事態が生じた
- グローバル化の定義:
- 企業や人の活動が国境を越えて広がることをいう
- 1990年代にコンピューターが普及し、そのスピードや規模が格段に飛躍した
- 郵便制度や電線網や鉄道という国家が主導して整備したインフラを用いることなく、直接的に海外の友人や取引先とコミュニケーションが取れるようになった
- 企業や人々が国家制度を介することなく活躍する余地が格段に増大した
- 2010年代のGAFAMの登場:
- グーグル・アップル・フェースブック・アマゾン・マイクロソフトといったIT企業が新たな通信インフラを普及させた
- 企業が国家の統制下にあった通信インフラに依存していたが、いまや企業は国家に依存する必要がなくなった
- テレビは国家の統制下(免許制)にあるが、そのテレビを介さずとも企業は有効に広告を打つことができるようになった
- 国家がIT企業に業務を委託するなどして、その力を借りるようになっていった
- 企業が国家に代わり、「統治」(支配)の担い手となり始めた
- 東京大学では最近、学生たちが法学部ではなく経済学部を積極的に選ぶようになった
- 官僚・政治家・弁護士の人気は落ちるいっぽうである
- むしろエンジニアやコンサルタントといった「会社員」が注目されつつある
■ 4. 歴史的経緯②新自由主義
- 新自由主義の定義:
- 「統治」の担い手を国家(自治体)そのものではなく、企業に任せる(委託する)ことを肯定する思想である
- 「統治」を市民が税金で雇った公務員が担うのではなく、企業の「会社員」に担わせる
- グローバル化の進展と新自由主義の普及は同時に訪れる
- 「民間活力の導入」と言われて肯定されるが、他方で市民が「統治」に携わる領域(公共領域)が縮小されやすくなる
- その先兵となっているのが広告代理店やコンサルティング企業である
- 具体例:
- 選挙にマーケターが入り込み、結果を左右している
- コンサルティング企業は自治体や国家の仕事を請け負い主導している
- 行政は公園の管理を企業に任せ、その見返りに企業は年間40万円という格安で好立地にレストランを建てることができる(豊中市の事例)
- 市民が情報公開請求を行っても、行政が大企業(コンサルタント会社)に公園管理を委託し、その大企業が小企業(レストラン)に公園管理を委託するという下請け構造を盾にして「その情報は民間の契約のことなので(民民なので)公にできません」と資料を真っ黒に塗りつぶして出してくる
- 新自由主義の根本は「統治」に関する思想である
- 法や権利で世の中を動かすのではなく、市場の論理で世の中を支配することを当然と見なすのが新自由主義である
- 市場の論理で世の中が動くことが当然だとすれば、貧困に陥った人々もまた市場の論理の上で動かざるを得なくなる
- 三宅香帆の言葉では「個人の誰もが市場で競争する選手だとみなされるような状態」である
- その結果として「自分が貧困に陥ったのは、自分に商品価値がないからだ」「失敗しても、それは自分のせいだ」という自己責任論が蔓延する
■ 5. 歴史的経緯③インターネット
- 良い市民・良い国家・良い統治という考え方に基づく「教養主義」を支えたのが新聞社や出版社であった
- 新聞社や出版社は知識人を起用して議論を展開させ、「良い市民」が行うべき議論や姿勢の範を示した
- かつて知識人はアカデミアに依存しながらも、それらが「専門領域」に閉じこもっていることを批判し、「反アカデミズム」の姿勢を鮮明にしていた
- 知識人は「アカデミシャンは『人々がどう生きるべきか』や『社会はどのように統治されるべきか』に関心がない」と批判していた
- 「良い市民」を必要とする国家(特に議会)とメディア産業は補完的な関係にあった(1980年代まではかろうじて維持される)
- 1990年代に入り、インターネットの出現によってこれらの力を削ぐ事態が生じた
- コンピューターが1990年代になって普及し、多くの人が自分の意見を表明できるようになった
- 2010年代に入り、SNSの登場によってインターネットによる発信者は激増した
- もはやIT企業の通信インフラやそこで行われるコミュニケーションを無視しては議会の議論が成り立たない
- IT企業は議会での審議も何も通さずに、人々のコミュニケーションの形を勝手に決めてしまう
- イーロン・マスクがツイッター社を買収して、その通信のあり方を一瞬で変えてしまったように、選挙結果をも左右する通信インフラが企業によって一瞬で変えられてしまう
- たくさんの投稿の中の一人にすぎない知識人よりも、エンジニアにこそ圧倒的に影響力がある
- 国家が巨大IT企業の「会社員」によって左右されるようになってくる
- 「良い市民」という前提が崩れ、知識人という存在も古びたものになる
- 「良い市民」が崩れた結果、そのような知識人的なふるまいは許されなくなる
- むしろ研究者の方がたくさんのユーザーから知識の点で頭一つ抜けることができる
- 「教養主義から単なる人文知へ」とまとめられる理由は、「人生」や「社会」を偉そうに語る教養主義ではなく、単なる知識に還元された人文「知」が重視されるようになったことにある
■ 6. 歴史的経緯④2010年代の言論状況と群れ(マルチチュード)の登場
- 令和人文主義の担い手が経営者(深井龍之介)や(元)マーケター(三宅香帆・朱喜哲)であるとされているのは当然である
- 谷川嘉浩自身も「企業からヒアリングを受けたり、コンサルティングや調査を引き受けたり、研修を提供したり、コーチングのようなことをしたりすることもあります」と述べている
- 国家が没落すれば企業の力だけが残るわけではない
- 企業が実質的な「統治」を担うようになり、市民と国家が教養主義とともに没落した後に生まれてきた存在が群れ(マルチチュード)である
- 群れ(マルチチュード)の定義:
- 左派の思想家であるアントニオ・ネグリが創った言葉である
- 議会や裁判を通さず、直接的に企業や行政にぶつかっていく抵抗運動の担い手を指す
- 2011年にアメリカのウォール街を人民が占拠したオキュパイ・ウォールストリート運動が代表的な事例である
- スペインでは、パレスチナの人民を虐殺するイスラエルが出場するスポーツ大会の会場に抗議団体が直接入り込むこともあった
- 日本でも行政と癒着した吉本興業への抗議運動が展開されている
- 市民はすべて議会や裁判などを通して間接的に自分たちを統治しようとする(間接民主主義)が、それが機能不全に陥ったときに、市民の権限を縮小された人々は群れ(マルチチュード)となって直接的な抗議行動に打って出る(直接民主主義)
- 国家や法に依存した市民が凋落した後に、越境する企業(会社員)と世界中の群れが「統治」のあり方をめぐって抗争を行っているのが現代社会である
- イーロン・マスクをはじめとした実業家と、グレタ・トゥーンベリをはじめとした活動家たちが火花を散らしている
- ドナルド・トランプは群れから企業の財産を守る鉄砲玉にすぎない
- 令和人文主義が受け手とした「会社員」とネグリが依拠している「群れ(マルチチュード)」は、市民が凋落した後に出てきた点で表裏一体の存在である
- 日本の言論界では2000年代に入り、新自由主義とグローバル化で国家が機能不全に陥ってから、この「群れ」を基点とした抵抗運動を理論づける思想がよく語られるようになった(「ストリートの思想」と呼ばれる)
- しかし世界の中でも珍しく日本では非暴力直接行動が行われにくい
- この傾向を決定づけたのがSEALDsが主導した2015年の安保法制反対闘争で、そこで人々が「市民」として街頭に出て国会前で抗議運動を展開し、小熊英二や内田樹をはじめとしたリベラル派の思想家が言論界の覇権を握った
■ 7. 令和人文主義の歴史的意義
- 2010年代は市民運動の時代であった
- 令和人文主義が「市民」という法的主体ではなく「会社員」に向けて書いているなら、その動きは2010年代の「市民」主義者の覇権に抗して出てきたとみることもできる
- 令和人文主義と括られた人の本を実際に読めば、谷川嘉浩の『スマホ時代の哲学』にせよ、三宅香帆の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』にせよ、いずれも基盤にあるのは他者への共感(感情の再活性化)を重視するリベラリズムである
- 共通するのは感情の重視である
- 三宅香帆と谷川嘉浩は「会社員」であることから逃れる契機を人文知(文学や哲学)の中に見出そうとする点で共通している
- スマホを介して私たちの注意力を奪う現代経済の構造(アテンションエコノミー)や、自己啓発本を介して「会社員」であり続けるよう強迫する思想潮流に対して、自分自身の内面や思考を守ろうとする
- 「会社員」(手足)であることを一時停止するキッカケを人文学に見出し、思考や内面を固守し、他者への共感を呼び覚ますことで、現況の支配的な経済とはズレて自分たちに変化を起こすことを肯定するのが、この二人に共通する思想である
- 踏み込んだ解釈をすれば、令和人文主義の思想はそのような他者への共感に基づいた「良い統治」を形作るものでもある
- 令和人文主義は理念的には教養主義の系譜にあるように思われる
- 定式化すれば、教養主義は「良い市民・良い国家・良い統治」を前提とし、令和人文主義は「良い会社員・良い企業・良い統治」を前提とする
- 谷川嘉浩の論考には「良い会社員になれ」なんて一言も記されていないし、「市民になれ」とも言われていない
- ただいま時代が「良い会社員・良い企業・良い統治」を目指す方向に流れている以上、そちらに抵抗しなければそちらに流されてしまう
- 令和人文主義はこの流れへの抵抗を欠いている
- それは「穏やかな専制」への加担ではないかと思われる
■ 8. 問題点①知識人の抹消
- 谷川嘉浩は令和人文主義の担い手は「ビジネスに役立つ」と銘打っているわけではないと述べている
- かといって読書を通して良い統治を目指そうと声高に訴えているわけでもなさそうである
- 「人生の中に小説や評論や人文知がある暮らしになるとうれしい」というスタンスを採り、「別に専門家養成や学問分野の成熟に直接繋げようと思っていない」としている
- 谷川嘉浩の記述には知識人という古めかしい言葉への言及がない
- 谷川嘉浩は読者が書き手に近づくことを「研究者」になることだと記述している
- しかしかつての大学生たちは研究者ではなく知識人になりたいと思ったのではないかと筆者は考える
- 本を読みつつ、発言し、行動するジャン=ポール・サルトルのような知識人になることを求めた
- 東浩紀くらいまでの人文学の担い手は読者に知識人になるように求めた
- その知識人へのこだわりが谷川嘉浩には見受けられない
- むしろ積極的にそのマチズモを消そうとしているように見受けられる
- 知識人の定義:
- 統治の言葉(統治の言語ゲーム)を習得した人物たちのことである
- 「こういうルールで世の中を動かせばうまくいくのだ」と語る存在である
- 統治の言葉の代表格は法律であり、それを学んだ法曹は知識人とみなされテレビに出る
- 哲学者や文学者はその法律による統治に異議を唱える形で存在感を示した
- かつての知識人の問題は政治と文学だった
- 統治(政治=法律)とそれに反抗する自我(文学)のバランスをどう取るかが大きな問題だった
- 現代はグローバル化と新自由主義を直接的な原因として、国家の統制力が弱まり、法学の地位は失墜した
- 哲学と文学もそれに伴い失墜する
- その代わりにIT企業を率いるエンジニアや、市場の論理に習熟したマーケターやコンサルタントが統治を担う
- プログラミング言語やマーケティング理論こそ、法律に代わる新たな統治の言葉である
- 弁護士や官僚だけではなく、エンジニアやマーケターやコンサルタントが統治者の中に入った
- いまやこのような「会社員」こそ「良い統治」を担う特権的な階級(知識人)である
- かつて市民派議員や市民派弁護士がいたように、令和人文主義が創り出そうとするのは市民派会社員なのではないかと筆者は考える
- 会社員は市民の代弁者ではなく企業のメンバー(手足)なのだから、いくら市民派であるとはいえ、最後には経営者の決定に従い、資本を活かして物事を強引に前に推し進める
- 市民からの声を「聴くな」と言われたらすべて黒塗りで返してくる
- もし良心を発揮して公開してきてもそれは恩情である
- 統治の問題が法や権利ではなく、力と恩情として解決される
- これは資本の装いをした「専制」である
- 極中道(エキストリーム・センター)と呼んでもいいかもしれない
- イーロン・マスクはSFが好きだそうだが、政治と文学の代わりにいまはITとSFの時代が到来したと言える
- 東浩紀が現代日本で唯一無二の知識人である理由は、ITとSFの問題を『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』や『一般意志2.0』で担ったからである
- 谷川嘉浩の文章を読む限り、令和人文主義では(統治を担う)「会社員」の「暮らし」を人文知で補完する役割を果たすそうである
- 令和人文主義はマーケターやコンサルタントにとっての「文学」(自我)を担おうとしているのかもしれない
- その専門知は「会社員」として仕事をする上で役にたつ
- 実際、筆者の周りでも人文知を修めた学生がコンサルタントやマーケターとしていい給料で就職していく
- 大学の中で人文学の肩身は狭くなっても、人文知は「売れる」のである
- 現代のキャリア組の「会社員」の多くが知識を用いる業務に従事している以上、その知識をまとめた上で新たな知識の生産を行う人文知の素質が求められる
- 令和人文主義はそれに「待った!」をかけない
- 谷川嘉浩が提唱する「令和人文主義」では法と権利が問題にならない
■ 9. 問題点②『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の歴史観
- 谷川嘉浩はラジオで令和人文主義の典型的な作家として三宅香帆の名前を挙げている
- 三宅香帆は「いま批評は存在できるのか」というトークイベントで「ビジネスパーソンを観客として意識せねばならない」と語っていた
- 三宅香帆の歴史観は新自由主義に基づくものであり、教養主義の歴史を「会社員」向けに都合よく編纂したものだと筆者は考える
- 三宅香帆は新自由主義の問題点を指摘している:
- 新自由主義の思想が個人に競争を強いるあまり「自己決定・自己責任」の過剰な内面化をもたらし、社会問題に目をつぶらせてしまうと批判している
- しかし「教養主義」の近代主義的な側面(良い市民・良い国家・良い統治)を切り捨ててしまい、新自由主義思想を相対化できていない
- 新自由主義が過去を解釈する唯一の思想になってしまっている
- 結果として過去の読書家もまた市場の論理で動いていたという解釈が提示される
- 三宅香帆は人々が教養を身に着けることを「階級上昇の運動」と一言で表現している
- 三宅香帆の記述:「読書や教養とはつまり、学歴を手にしていない人々が階級を上がろうとする際に身につけるべきものを探す作業を名づけたものだったのかもしれない」
- 大学出のエリート層が労働者階級と差別化を図るための営みという側面が教養主義には間違いなくあった
- 教養を身に着けた方が労働市場に出て就職活動をした際にいい会社に就職しやすい
- 要するに労働力商品としての価値を高める側面が教養主義にはたしかにあった
- ただしこの解釈では多くの学生たちがマルクス主義や共産主義思想に魅了されたのか説明できない:
- 1930年代の言論界のスターは三木清や戸坂潤というマルクス主義者である(後に獄中死している)
- 学生たちは貧困地区に赴きセツルメント運動(社会改良運動)を担い、警察による激しい弾圧の中でもマルクス主義を勉強し続けた
- マルクス主義を学んだ「アカ」は就職先からも嫌がられた(阪急電鉄創業者の小林一三は大の「アカ」嫌いだった)
- 筆者の認識では当時の学生たちは「市民」の一員として「統治」を担おうとしていた
- その「統治」は民族差別的・性差別的であったが、彼らなりに「良い統治」を目指そうとした
- その結果、資本主義体制とは異なる「統治」のあり方であるマルクス主義に惹かれた
- もし「教養主義」が統治を担う市民であろうとする人々の間に広まっていた文学や哲学を指すならば、マルクス主義が教養のひとつであったことは何ら不思議ではない
- それは「統治」に関する新たな考え方そのものだったからである
- 三宅香帆の歴史観は人々の読書という営みを「階級上昇」と端的に結びつけている
- 読書を自分自身の商品価値を高めること(スキルアップすること)を目指すものだとしている
- 教養主義の営みを市場の論理に回収している
- 『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は新自由主義批判を行いつつも、新自由主義の考え方を無意識のレベルで広める本である
- 三宅香帆は教養主義の歴史から市民的な側面をカットすることで、「会社員」たちに「誰も市民などではなかった」と甘言を弄している
■ 10. 問題点③キャリア組のための哲学
- 「教養主義から単なる人文知へ」という令和人文主義は、法学に連なっていた人文学を「知」へと還元することで、コンサルタントやマーケターを範とする「会社員」が利用しやすいように人文学を改変している
- 民俗学の例:
- 民俗学は私たちがふだん用いている言葉の由来や古来の用法などを紹介している点でそれ自体とても面白い「知」である
- しかし創始者である柳田國男は民俗学を日本に「民主主義」を根づかせるために創った
- 後続の批評家である大塚英志が民俗学を「公民の学」であると声高に言い続けなければならなかったのは、民俗学が「知」としてあまりに面白く役に立つために、それが「市民」(公民)を形成するために創られたことを誰もが忘れてしまうからである
- 筆者は読者に対して「市民」になるよう、押し付けがましく口酸っぱくいわなければならないと考える
- どんなに嫌がられようとも、その結果として人文学が見捨てられようとも、押し付けがましく口酸っぱく反復して言うべきだと考える
- そうしなければ現代の人文知は時代の趨勢に流されるままに「良い会社員・良い企業・良い統治」のためのツールになる
- コンサルタントの勅使河原真衣はまさに「良い会社員」「良い企業」をつくるために教育社会学の知見を活かしている
- それが悪いとはまったく思わないし、人文知を仕事に活かすのは素晴らしいことである
- ただその政治的な結果が市民の権利縮小につながるのではないかと懸念している
- 時代に流されるのがいけない
- それは「階級」の問題を隠蔽することになる
- 実際のところ「市民」とならずに「会社員」として社会の「統治」に参加できるのは、法人から統治能力を与えられた「手足」(メンバー)であるキャリア組(正社員)だけである
- ノンキャリア組(非正規社員)はその権限を持たない
- ノンキャリア組はいまだに「市民」という立場で「統治」に参加しうるだけである
- たとえ本人が主観的にはマーケターやコンサルタントのように社会を動かしたいと思っていても、実際に関与できるのは「市民」か「群れ(マルチチュード)」としてだけである
- 谷川嘉浩は「会社員」という一言を書きつけることで「会社員」(手足)の間に走る階級的な亀裂を隠蔽している
- もしノンキャリア組を眼中に収めるならば、人文学が「会社員」に向けて書かれ、その担い手が経営者やマーケターであることをこのように素直に肯定しないはずである
- ノンキャリア組はこの社会の統治に「市民」か「群れ(マルチチュード)」として以外に関わることができないからである
- 人文学者がもし強きにおもねらず、長い物には巻かれないという矜持を持つならば、「市民」あるいは「群れ(マルチチュード)」に向けて書くという一線を絶対に揺るがせてはならない
- 筆者は谷川嘉浩の言う「令和人文主義」を次のように表現したくなる:「正社員様の哲学」
- この表現には悪意を込めている
- しかし甘言を弄するだけではなく、読者を不快にさせることもまた人文学の任務である
- 谷川嘉浩は哲学者の鶴見俊輔について一冊の本を書き上げている
- ただ鶴見はフリーターの困難を語ったロスジェネ世代の論客・赤木智弘の登場を衝撃的に受け止めていた
- その鶴見なら「令和人文主義」をどう思うだろうか
- 何らかの形で自らの哲学を引き継ごうとする若い哲学者が「会社員」に向けて書くということを素直に肯定するに至っては、鶴見も天国で苦笑いを浮かべているのではないか
- 谷川嘉浩の言う「令和人文主義」は格差の隠蔽を前提としている
- そのようなマーケティング用のネーミングなど撤回したほうがよいのではないか
■ 11. 学生への訴え
- エンジニアがもたらすITの覇権とマーケターやコンサルタントがもたらした市場の論理の専制に対して、人文学は抵抗の牙城となっている
- いまや人文学はカウンターカルチャーに他ならない
- それには歴史的な経緯がある
- 令和人文主義はその歴史的な経緯に蓋をすることで、人文学から「カウンター」性を抜いてしまう
- いまは抗争の時代である
- ITエンジニア・マーケター・コンサルといった市場の論理と、弁護士・官僚・政治家といった市民の論理、そして群れ(マルチチュード)の論理が覇権をめぐって抗争し/協力し合っている段階である
- ここで最も劣勢なのは(この数世紀人文学が依拠していた)市民である
- 群れとならず、とはいえ市民となることも避けたいけど、人文知は生き残らせたいという現在の窮状に対する保身的な動きが「会社員」に依拠した「令和人文主義」なのではないか
- これは出てくるべくして出てきたものである
- 筆者の著作は主に市民、群れ、そして学生に向けられている
- それは読者に法を主体的に運用する「市民」や抗議運動を担う「活動家」にもなってほしいからである
- 人文学はマーケティング理論や経営理論やプログラミングではなく、法学に連なる学問であってほしいからである
- そうでなければ「市民」として平等に担保された権利(少なくともその建前)に基づいて論理を組み立てることができない
- 誰にでも向けられているというのは文体の問題だけではなく、拠って立つべき基盤の問題である
- 法や権利は誰もが拠って立つことができるという建前になっている
- 市場の論理はそうではない
- 「会社員」をターゲットにするとき、そこで扱われる人文知は誰もが利用可能なものなのかどうか怪しい
- 学生への具体的提言:
- もし人文学ではやっていけないなと思ったら、研究歴や業績をすべて投げ捨てて法律を勉強すべきである
- 法の支配を立て直すべきである
- マーケティング会社やコンサルティング企業は若さと人文知を高値で買い取るだろうが、安易に企業の側に入らずゼロから出発するべきである
- そのうちの何人かは法務につくことができる
- 王道の道:
- 令和人文主義にせよ法律の勉強にせよ、いずれも対症療法にすぎず邪道である
- 王道は人文学者として統治を担う企業との抗争関係にはいることである
- 企業に人文知を「売る」のではなく、企業の統治に対抗できるような新たな統治理論・新たな主権理論を模索すべきである
- 人文学が「解釈」によって統治に貢献する以上、ITや市場の論理による統治ではなく、法による統治の幅をどれだけ広げるかが重要である
- 誰もが「法によって統治されている」という感覚を持つこと(を目指すこと)ができれば、おのずと人文学の立場も向上すると筆者は考える
■ 1. 総合評価
- この文章は知的野心に富んだ批評的論考である
- 社会理論・政治哲学の枠組みを用いて「令和人文主義」を批判的に分析している
- 論理構造は比較的明確で、歴史的文脈の整理も丁寧である
- しかし概念定義の恣意性、二項対立の過度な単純化、実証性の欠如という重大な欠陥がある
- 著者自身の規範的立場が分析を歪めている箇所が散見される
■ 2. 肯定的評価
- 構造的明晰さ:
- 「市民」と「会社員」の概念的区別は明確である
- グローバル化→新自由主義→インターネットという歴史的流れの整理は分かりやすい
- 批判対象(令和人文主義)の特徴を具体的に列挙している
- 理論的射程の広さ:
- ヘーゲル、ネグリ、東浩紀など多様な思想家を参照している
- 「マルチチュード」概念の導入は示唆的である
- 教養主義の歴史的変遷への言及は有益である
- 問題意識の鋭さ:
- 「誰に向けて書くか」という問いは重要である
- 階級的視点の導入は一定の妥当性がある
- 人文学の政治性への自覚は評価できる
- 具体的事例の提示:
- 豊中市の公園管理の事例を挙げている
- 三宅香帆のテキストの具体的引用がある
- 鶴見俊輔と赤木智弘への言及がある
■ 3. 主要な論理的問題点①「市民」と「会社員」の二項対立の過度な単純化
- 著者は「市民」=法的主体、「会社員」=企業の手足という二項対立を設定するが、この区分は現実を過度に単純化している
- 重複するアイデンティティの無視:
- 人は同時に市民であり会社員でありうる
- 会社員も選挙権を行使し、裁判を起こし、政治活動に参加できる
- 「会社員として投票することは建前上避けるべき」は法的に無意味である(投票は個人の権利)
- 「履行補助者」の法的位置づけの誤解:
- 会社員も個人として法的責任を負う場面は多い(刑事責任、重過失など)
- 「法律上の責任を問われる可能性は非常に低い」は不正確である
- 市民概念の理想化:
- 著者が描く「市民」は理念型であり、実際の市民の多くは政治に無関心である
- 「良い市民・良い国家・良い統治」はそもそも実現したことがない
- より正確な理解では、市民と会社員は対立概念ではなく、同一人物の異なる社会的役割である
- この基本的理解を欠くことで議論全体が歪む
■ 4. 主要な論理的問題点②「令和人文主義」の定義の曖昧さと批判の的外れ
- 谷川嘉浩が提唱した「令和人文主義」という概念を批判しているが、その概念自体が曖昧であり、批判も的を射ていない可能性がある
- 概念の二次的解釈:
- 著者は谷川の記述を自らの枠組みで再解釈し、その解釈を批判している
- 藁人形論法の疑い:
- 谷川が本当に「会社員に向けて書く」ことを全面的に肯定しているのか、原文の確認が必要である
- 担い手の恣意的選定:
- 「令和人文主義」の担い手とされる人々が本当にそのように自己規定しているか不明である
- 問題のある推論:
- 「受け手が会社員」→「市民を軽視」→「統治への無関心」→「専制への加担」という論理の飛躍は著しい
■ 5. 主要な論理的問題点③三宅香帆への批判の不公平さ
- 三宅香帆の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』への批判が一面的である
- 引用の恣意的選択:
- 「階級上昇の運動」という一節だけを取り上げて批判している
- 文脈の無視:
- 三宅の著作全体の論旨を踏まえているか疑問である
- 二律背反の設定:
- 「新自由主義批判をしつつ新自由主義を広める」という評価は矛盾を指摘しているようで、実際には単なる断定である
- 公平な評価のためには:
- 三宅の著作全体を通読した上での批判が必要である
- 三宅自身が自らの立場をどう規定しているかの確認が必要である
- 他の批評家の評価との比較が必要である
■ 6. 主要な論理的問題点④マルクス主義への過度な依存
- 著者の議論は暗黙のうちにマルクス主義的な階級観に依拠しているが、その妥当性を検証していない
- 階級二項対立の前提:
- キャリア組/ノンキャリア組という区分が社会の本質を捉えているか疑問である
- 現代社会の分断は正規/非正規だけでなく、世代、地域、教育水準など多次元である
- 「マルチチュード」概念の無批判な導入:
- ネグリの理論は多くの批判を受けている
- 「群れ」が本当に抵抗の主体となりうるか実証されていない
- 1930年代マルクス主義の美化:
- 戦前のマルクス主義者は多くが転向し、あるいは国家主義に合流した
- セツルメント運動の実態も複雑である
- 「市民として統治を担おうとした」という解釈は理想化である
■ 7. 主要な論理的問題点⑤その他
- 「知識人」概念の恣意的定義:
- 「知識人」を「統治の言葉を習得した人物」と定義しているが、これは標準的な定義ではない
- 独自定義による議論を展開している
- 循環論法が見られる(「知識人は統治に関わる」→「統治に関わらない人文主義は知識人を軽視」→「よって問題だ」)
- かつての知識人が本当に「統治」を担おうとしていたか、反証例は多い(芸術至上主義、純文学など)
- 「法の支配」への過度な信頼:
- 著者は「法による統治」を「市場の論理」より優れたものとして前提している
- 法の限界を無視している(法は常に支配的権力の道具にもなりうる、法律実証主義の問題、法的手続きの遅さ、コスト、アクセスの不平等)
- 「法 vs 市場」は単純化しすぎである(実際には法と市場は相互補完的、市場を規制するのも法、法を支えるのも経済基盤)
- 歴史的反証として、「法による統治」の時代も差別、抑圧、帝国主義は存在した
- 実証性の完全な欠如:
- 主張のほぼすべてが理論的演繹であり、実証的根拠がない
- 読者調査の不在(「令和人文主義」の読者が本当に「会社員」中心か、データなし)
- 社会変動の実証なし(「国家の没落」「企業による統治」はスローガンであり、指標がない)
- 比較の欠如(他国との比較、他時代との比較が不十分)
- 処方箋の現実性の欠如:
- 「法律を勉強せよ」「企業との抗争関係に入れ」という提言は現実的でない
- 法曹の現実を無視している(司法試験の難易度、弁護士過剰の問題、法曹が「市民派」である保証はない)
- 「抗争」の非現実性(「企業との抗争関係に入る」とは具体的に何をするのか、生活の糧をどう得るのか)
- 自己矛盾がある(著者自身はどのような立場で発言しているのか、「人文学者」として給料を得ているなら、それも「会社員」的立場では)
- レトリックの過剰:
- 「正社員様の哲学」「穏やかな専制」など、挑発的な表現が議論の質を下げている
- 感情的訴求への依存(論証ではなく修辞で説得しようとしている)
- 対話の拒否(「悪意を込めている」と明言することは建設的議論を阻害)
- 自己正当化(「不快にさせることも人文学の任務」は批判への予防線)
■ 8. 欠けている視点
- 「令和人文主義」への内在的理解:
- 批判対象の思想を内側から理解する努力が不足している
- なぜそのような思想が生まれたのか、その合理性や意義への共感的理解がない
- グローバルな視点:
- 日本の「令和人文主義」を国際的な知識人論、公共哲学の文脈に位置づける努力が不足している
- 類似の議論は欧米にもある
- 読者・実践者の視点:
- 「会社員」として働きながら人文知を学ぶ人々の実感、苦悩、希望への想像力が欠如している
- 上から目線の批判に終始している
- 人文学の多様性:
- 人文学を「法に連なる学問」に限定するのは恣意的である
- 芸術、文学、歴史学などは必ずしも「統治」と直結しない
- テクノロジーへの複眼的視点:
- ITを「統治の道具」としてのみ捉え、市民のエンパワーメント(情報公開、監視への抵抗)の可能性を無視している
- 世代間対話の視点:
- 「令和人文主義」を若い世代の挑戦として受け止め、対話する姿勢が不足している
- 上の世代からの一方的批判に終始している
■ 9. 構造上の問題
- 論文の長さと焦点:
- 11節にわたる長大な論考だが、焦点が散漫である
- 歴史的説明が長すぎ、核心的な批判が埋もれている
- 論証と主張の混在:
- 社会学的分析(〜である)と規範的主張(〜べきである)が混在し、区別が曖昧である
- 結論の弱さ:
- 「法律を勉強せよ」「企業と抗争せよ」という結論は、長い議論の帰結としては貧弱である
■ 10. 改善提案
- 概念の精緻化が必要である:
- 「市民」「会社員」の関係をより精緻に分析する
- 両者が対立ではなく重複する現実を認める
- 「知識人」の定義を標準的な用法に近づける
- 実証的裏付けが必要である:
- 人文書の読者調査を行う
- 「市民」としての政治参加のデータを示す
- 新自由主義の影響の計量的分析を行う
- 内在的批判が必要である:
- 「令和人文主義」の意義を認めた上での批判を行う
- 谷川、三宅らの著作の丁寧な読解を行う
- 対話的姿勢を持つ
- 現実的処方箋が必要である:
- 「法律を勉強せよ」以外の選択肢を示す
- 人文学者が現実に何をできるかを示す
- 成功事例の提示を行う
- 自己反省が必要である:
- 著者自身の立場(大学教員?)の明示を行う
- 自らも批判の対象となりうることの自覚を持つ
- 「マルチチュード」に依拠する根拠を示す
■ 11. 結論
- この文章は知的刺激に富む批評的論考である
- 「誰に向けて書くか」という問いや、人文学の政治性への意識は重要である
- 歴史的文脈の整理も参考になる
- しかし致命的な欠陥がある:
- 「市民」vs「会社員」の二項対立は現実を歪める
- 批判対象への内在的理解が不足している
- 実証性がほぼゼロである
- 処方箋が非現実的である
- マルクス主義的前提の無批判な導入がある
- レトリックへの過度な依存がある
- 格付け: 論理的説得力 ★★★☆☆(5点満点中3点)
- 問題意識と理論的枠組みは評価できるが、論証の粗さ、実証性の欠如、二項対立の過度な単純化により、説得力は中程度にとどまる
- 最大の弱点:
- 著者は「市民」と「会社員」を対立させ、後者に向けて書くことを批判するが、現実には両者は同一人物の異なる側面である
- この基本的な理解の欠如が議論全体を空転させている
- 「令和人文主義」批判の名のもとに、実際には著者自身のマルクス主義的・市民主義的規範を押し付けている
- 批判というより、異なる政治的立場からの対抗宣言である
- それ自体は正当だが、客観的分析を装うべきではない