■ 1. 過剰批判の時代と批判理論の自己反省
- 学術界では「批判的」という語が過剰に使用され「批判法学」「批判的人種理論」「批判的ジェノサイド研究」など多様な分野で用いられている
- 現代は「過剰批判」の時代であり批判それ自体への批判が活発化している
- トム・ボーランド『批判のスペクタクル』やブルーノ・ラトゥールの論考が批判理論内部からの自己批判的転回を示している
- これらの「批判への批判」は批判理論の外部からの攻撃ではなく本殿内部からの反省的考察である
■ 2. 伝統的批判理論の定義と現代の逸脱
- ジェームズ・ボーマンによる批判理論の3つの基準:
- 説明的であること(現下の社会的現実の問題を説明する)
- 実践的であること(変革主体を特定する)
- 規範的であること(明確な規範と実現可能な実践的目標を提示する)
- 現在「批判的」を名乗る研究の大半は伝統的な意味での批判理論ではない
- フーコーやブルデューの枠組みを用いる研究は規範的基礎を明示する努力を行っていない
- これらの研究者は社会正義へのコミットメントを持ちながら正義の要請について明確に述べることができない
■ 3. 批判の実践的側面と「過剰な抑圧」概念
- 著者の関心は批判理論の実践的側面に向かっている
- ハーバート・マルクーゼの「必要な抑圧」と「過剰な抑圧」の区別が重要である
- 批判は是正可能な問題を特定し実践に指針を与えるべきである
- 抑圧の存在を指摘するだけでは批判にならない
- 批判がなすべきは悪しき帰結なく廃絶できる「過剰な」抑圧を特定することである
■ 4. 資本主義批判の不誠実性
- 資本主義を道徳的に非難する近年の政治哲学は不誠実である
- マルクス主義的な身振りで資本主義を糾弾しながら改善をもたらす社会主義システムの設計について誰も見当がついていない
- マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』は資本主義のオルタナティブを提示しないまま批判だけを展開している
- 資本主義の欠陥や不正義への批判は一応(pro tanto)正当化されるが実現可能なオルタナティブが存在しない以上全てを考慮した上で(all-things-considered)非難すべきとはならない
- 適切に規制された市場経済と寛大な福祉国家の組み合わせが大多数の人の選択となる
■ 5. 「批判」と「ぼやき」の区別
- 批判とぼやきの区別により近年の政治経済学文献への不満を明確化できる
- ぼやきとは問題が対処可能であると示す努力がなされていない不満の羅列である
- ぼやきは間違っているのではなくいかなる実践にも繋がらない点が問題である
- 批判とは何にでも貼り付けられるラベルではなく目指すべき目標である
- この用語法は大学院生への指導や学術的議論において実践的に使用されている
■ 6. ワヒード・フセインの市場論への応用
- 著者はワヒード・フセイン『見えざる手とともに暮らす』のシンポジウムに招待された
- フセインの市場批判は厳格な道徳原理に基づいているがその基準では現実的な制度全てが排除されてしまう
- 著者は論文「フセインの市場論:批判かぼやきか?」をCanadian Journal of Philosophyで発表した
- このタイトルは意地悪ではなく親愛の情の表現でありフセイン自身が希代のぼやき屋であったという内輪ネタである