■ 1. 記事の背景と筆者の立場
- ドキュメンタリー監督の大島新による2026年1月8日のドキュメンタリー時評である
- 伊藤詩織監督によるドキュメンタリー映画「Black Box Diaries」(以下BBD)が2025年12月12日に日本で公開されて以降作品への賛否が分かれ激しい論争が続いている
- これまで多くの政治社会問題について意見が一致していた人たちがBBDを巡っては分裂し互いに強い言葉を投げかけるような状況になっている
- 筆者が親しみを感じていたりその仕事に尊敬の念を抱いてきた人たち同士が対立している
- 長年ドキュメンタリー映像制作に携わってきた者として考えを述べたい
■ 2. 事件の経緯と筆者の期待した解決策
- BBDが米国アカデミー賞の長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされ伊藤詩織さんがロサンゼルスのレッドカーペットを歩いたのが2025年3月2日(現地時間)である
- そのおよそ10日前の2月20日に東京都内で予定されていた伊藤さんの記者会見がキャンセルとなり伊藤さんは声明を発表した
- 声明には「映像を使うことへの承諾が抜け落ちてしまった方々に心よりお詫びします最新バージョンでは個人が特定できないように全て対処します今後の海外上映についても差し替えなどできる限り対応します」と記されていた
- 「承諾が抜け落ちてしまった方々」とは映像や音声について使用許諾がないまま映画の中で映し出された人たちを指すと思われる
- 具体的には
- (1)タクシー運転手
- (2)防犯カメラ映像の所有者であるホテル
- (3)捜査官A氏
- (4)西廣陽子弁護士
- (5)講演に参加したメディアで働く女性たちの一部
- である
- 筆者はこの時期に一連の報道を見聞きし「何とか解決に向かってほしい」と願った
- 筆者が考えた「解決」は伊藤さんが承諾が抜け落ちてしまった方々と誠実に話し合いその人たちが納得する形で映画を修正する・修正前の海外で流布しているバージョンはすべて取り下げ観られないようにする・その上で改めて修正したバージョンをBBDの完成版として日本を含めた全世界で公開するというものだった
- 「公開するな」ではなく「良い形で公開してほしい」という思いだった
- 日本社会にとって非常に重要な問題を投げかけている作品でありかつ修正したとしても充分優れたドキュメンタリー映画になり得ると感じていたからである
- しかし残念ながらこれは実現しなかった
- いまも海外では修正前のバージョンが上映や配信されている
- 日本公開版もタクシー運転手など一部解決に至った人もいたものの少なくとも西廣陽子弁護士の理解は得られていない
■ 3. 西廣陽子弁護士への対応について
- 「伝えていることの公益性重要性を鑑みれば一部の被写体の許諾は必要ない」という声も聞かれるが筆者はそうは思わない
- この問題が報じられた当初から筆者が気になっていたのが西廣陽子弁護士のことである
- 他の人はどうでもいいというつもりはもちろんない
- しかし西廣弁護士は伊藤さんの協力者であり裁判の伴走者だった
- その人が映画をこのまま公開しないでほしいと声を上げたにも関わらず話し合いがなされず公開に至ったことが理解に苦しむ
- 西廣さんは日本での公開前日に見解を発表し「伊藤さんの映画は重大な人権上の問題を孕んでいると言わざるを得ません」と指摘している
- 年末に品川の劇場で日本公開版のBBDを観た
- 西廣弁護士の顔にはすべてモザイクがかけられていた
- 筆者は悲しくなった
- 西廣弁護士はこの作品にモザイク付きで登場すべき人ではない
- そしてそれは伊藤さんも望んでいなかったはずである
■ 4. 伊藤詩織さんへの評価と監督としての課題
- 伊藤詩織さんにはこれまで2度お会いした
- 2回とも大勢の人が集まる場で言葉を交わした時間は短かったが礼儀正しく聡明な女性という印象だった
- 面識を持つ前から彼女が自らの性被害について実名顔出しで発信し社会に大きな影響を与えたことに尊敬の念を抱いてきた
- さらに度重なる誹謗中傷を受けながら安倍政権と近いジャーナリストである山口氏の犯罪行為を警察が握りつぶした疑惑を告発し裁判を闘い本を書き声を上げ続けたことの尊さはどれだけ讃えても足りないほどだと思っている
- しかし性被害サバイバーとしての伊藤さんとドキュメンタリー映画の監督としての伊藤さんは分けて考えるべきである
- 監督としての伊藤さんには至らぬところがあったとしか言いようがない
■ 5. ドキュメンタリーにおける被写体とのトラブル
- 「ドキュメンタリーに被写体とのトラブルはつきもの」「ほかの監督たちにもそうしたトラブルはあったはず偉そうに批判できるのか」という声も聞く
- それはある意味ではその通りだが筆者はトラブルの質が違うというかBBDはかなり稀なケースだと思う
- まずトラブルの多くは公開(もしくは放送)後に起きる
- 作品を観た被写体が「取材を受けた時はこんな風に描かれるとは思わなかった」と制作者にクレームを入れるパターンである
- 筆者自身はこれまで映画とテレビで合計50本ほどドキュメンタリーの監督を務めてきたがそうしたケースは1本を除いてなかった
- 例外的な1本は映画「香川1区」(2022)である
- この作品の中の表現を巡って筆者は2025年6月に自民党の平井卓也議員に名誉棄損で訴えられた
- BBDは公開前からトラブルになっていた
- それも「こんなにたくさんあるのか」という数の多さである
■ 6. ドキュメンタリー監督の慎重さと葛藤
- 一般的にドキュメンタリーの監督はこうしたことにとても敏感である
- 公開後や放送後にトラブルが起きないよう事前に被写体への丁寧な許可取りをしたうえで編集時には「映っている人が観客や視聴者にどう思われるか」を慎重に検討する
- 筆者が多く制作してきた人物ドキュメンタリーでは被写体の「負の側面」を描くこともあった
- そういうシーンがあったほうが人間の多面性を表現できるしプラスの面がより浮かび上がると考えるからである
- ところがそうした表現にトラブルの種が潜むことがある
- 筆者の映画初監督作である「シアトリカル 唐十郎と劇団唐組の記録」(2007)では宴会での唐十郎さんの泥酔シーンを使った
- そこには酔った唐さんが劇団員を罵倒する場面も含まれる
- 映画公開前の試写で観た唐さんは激怒した
- 筆者は震え上がりながらそのシーンの意図を説明し理解してもらえるよう努めた
- すぐには納得してもらえず時間をかけて話し合い泥酔シーンを少し短くすることで何とか合意に至った
- しかし公開後に映画が評判になると唐さんの評価はガラッと変わり筆者のことを認めてくれるようになった
- 人物ドキュメンタリーの場合経験上被写体が手放しで喜んだときは観た人の評価は高くないということがよくある
- 被写体にとって「撮られたくない見せたくない」という場面を含んでこそその人の人物像が浮かび上がり作品の厚みが増すということである
- ドキュメンタリーの監督は被写体との関係性に常に頭を悩ませている
- 映画やテレビ番組が人の目に触れ最も大きな影響を受けるのは監督ではなく作品に映っている人つまり被写体である
- ところがその被写体が「どう見えるか」を決めるのは監督である
- 時にはその人の人生を左右することだってあり得る
- だからこそびくびくしながら慎重に慎重に作業を進める
- BBDにおける伊藤さんにはそのような恐れや慎重さが不足していたのではないかと思わざるを得ない
■ 7. 許諾を必要としない公益性の範囲
- 筆者の監督作「香川1区」が平井卓也さんに名誉棄損で訴えられた件について裁判の争点となっているのは「平井卓也さんを映したシーン」ではない
- 政治資金規正法違反の疑惑を報じた4分強の場面である
- そこでの表現が名誉毀損にあたるかどうかを裁判で争っている
- 映画の中には平井さんを映したシーンはたくさん出てくるがインタビューを申し込んで許諾を得て撮影したものもあれば街頭演説の様子を特に許諾はなく映した場面もある
- それらのシーンの描き方については平井さんは何も言ってきていない
- 政治家は公人中の公人だからその活動を報じることには当然公益性がある
- とはいえ筆者は「相手が政治家ならどう描いても構わない」などと言うつもりはない
- その場面がファクトに基づき公益性が十分あると判断したときに政治家にとって都合が悪いことであっても伝える意味があると考える
- BBDの日本での公開がはじまった3日後の12月15日に伊藤詩織さんとプロデューサーが日本外国特派員協会で記者会見を開いた
- ここで司会者が「(原発事故を起こした)東京電力を取材する際に許諾は必要ない」という主旨の発言をした
- これは当たり前である
- 政治家の疑惑を報じることも同じことである
- しかしBBDをめぐる被写体とのトラブルはその性質がまったく違う
- この司会者の発言は明らかに問題のすり替えである
■ 8. 周囲のプロたちの責任
- BBDをめぐるトラブルについてあまり指摘されていないことについて言及したい
- それは「周りのプロたちはいったい何をしていたんだ」ということである
- 伊藤さんが素人だとは言わないがドキュメンタリー制作のキャリアが少ないことは明らかである
- 10年15年とテレビや映画で放送や上映を重ねていればそれなりに「痛い目」に遭う
- 失敗を重ねながら「ここまでは大丈夫」「これをやったら危ない」というラインを体得する
- テレビならば尺の短いものからはじまってその都度キャリアのあるプロデューサーや先輩スタッフから厳しい指摘を受けながら自らの足らざるところを学んでいく
- 伊藤さんにとってBBDは初の長編作品である
- そのうえ客観視が難しいセルフドキュメンタリーであり性被害のサバイバーが自らの体験を監督として伝えるという前代未聞の映画である
- 政権と警察の闇にも切り込んでいる
- 極めて難しいドキュメンタリーだと思う
- こんな時に重要なのは監督を支えクオリティチェックの役割も果たすプロデューサーの存在である
- 筆者は「もし自分がプロデューサーだったら」ということは想像できる
- 筆者ならばトラブルを解決するべく全力で動いたと思う
- 伊藤さんが西廣弁護士との約束を破ったことで直接話がしにくいのならば代わって話し合いの機会を持ち頭を下げてなんとか上映できるような解決策を探ったでしょう
- BBDのプロデューサーは会見に臨んだエリック・ニアリさんとハナ・アクヴィリンさんである
- 会見での発言を聞いてそうした考えはまったくなかったことがわかりがっかりした
- そしてこの作品には日本の「プロ」も関わっている
- それは製作と配給に名を連ねるスターサンズである
- いまのところスターサンズは今回のトラブルについて何も言及していない
- これはあまりにも無責任である
- 筆者が普段仕事をご一緒している配給会社ならばこんなことはあり得ない
- スターサンズの「だんまり」が不思議でなりません
■ 9. 捜査官A氏の扱いの難しさ
- 筆者が今回の件でもっとも悩ましいと感じたのは警視庁の捜査官A氏のシーンである
- これはすべて隠し撮り(録り)である
- 隠し撮り(録り)が許されるのは政治家の不正や犯罪の証拠がその方法によってしか得られない場合ということが原則である
- 性暴力の被害者である伊藤さんにとって警察の内部情報をつかむために隠し撮り(録り)をすることは理解できる
- しかしそれを映画として公開するのはまた別の話である
- 公開するに当たって考えなければいけないのが公益性と被写体の人権のバランスである
- 警察は公権力だから捜査官A氏は完全な私人とは言えない
- とはいえ彼は組織の一員で捜査の決定権はない
- 上層部の決定に従うしかない立場である
- 山口敬之氏の逮捕状を握りつぶす判断をA氏がしたわけではなくむしろその決定に疑問を持ったからこそ伊藤さんに内部情報を伝えたと思われる
- 伊藤さんもA氏に感謝の意を表明している
- しかしA氏は伊藤さんに親切な声を掛けながら不適切な言葉も投げかける
- その言葉は伊藤さんに衝撃を与え映画を観る者もA氏への不信感を募らせる結果となる
- こうしたA氏の二面性も含め監督が映画で使いたいという気持ちはわかる
- しかしA氏の人権についてどう考えればいいのか非常に複雑である
- 彼のことはすでに伊藤さんの書籍「Black Box」でも記されていて警察の内部ではA氏は特定されているはずである
- 伊藤さんはモザイクもかけて音声も変えているのでA氏は警察以外の人には特定されないと述べている
- しかし警察内部での彼の立場は微妙でしょう
- 筆者は伊藤さんが書籍や映画でA氏のことを伝えたことで彼の人生を変えた可能性があると考える
- 一人の人間の人生を変えることを背負った上で映画を公開する覚悟が伊藤さんにはあったのでしょうか
- BBDでは捜査官A以外にも隠し撮り(録り)が使われている
- 西廣弁護士との電話の会話もそうである
- これは西廣さんにとってショックだったと思う
- 「記録として残す」ことと「映画で公開する」ことはまったく違う
■ 10. 映画作品としての評価
- 最後に映画作品として筆者がどう観たか考えを述べたい
- これは非常に良くできていると思った
- ドラマティックかつエモーショナルである
- 構成と編集が実に巧みで観客は伊藤さんに感情移入し心を揺さぶられるでしょう
- 伊藤さんの心象風景を映し出したイメージ映像もとても効果的だった
- 作品のストーリー作りに関しては編集を担当した山崎エマさんの力が大きかったのだろうと思う
- さらに映画の日本公開後に知ったがこの作品には海外での受賞作を多く手掛けてきた人たちがアドバイザーとして参加していた
- 筆者がこの作品の強みでもあり同時に弱点でもあると感じたのは「セルフドキュメンタリー」であることである
- 伊藤さんは監督でありながらメインの被写体である
- BBDはその名の通りDiariesつまり「伊藤さんの映像日記」ということである
- だからこそ描けたものと描けていないものがあると思う
- 伊藤さんの主観で描いたこの映画筆者はストーリー展開がうますぎると感じた
- 一例をあげると伊藤さんとホテルのドアマンの電話のシーンである
- これは映画のクライマックスとも言っていい場面でドアマンが裁判で実名を出して証言を使って構わないことを伝え伊藤さんが感極まって涙を流すシーンである
- 観る者の胸を打つ非常に感動的な映像で伊藤さんもドアマンのことを「ヒーロー」と語っている
- 事件の民事裁判の詳細を知らない人が観たらドアマンの証言が決め手になって伊藤さんが裁判に勝ったと思うでしょう
- しかしそうではないことがすでに報道で指摘されている
- そうした事実は映画では語られない
- 筆者は想像する
- この映画を伊藤さんを被写体にして別の監督が作っていたらと
- 作品はまったく違ったものもっと引いた視点の映画になっていたでしょう
- 仮にそうだとしても伊藤さんが受けた数々の理不尽な出来事やそれによって浮かび上がる日本社会の多くの問題点は十分伝えることができただろうと思う
■ 11. 結論
- BBDはあまりにも多くの問題を提起した
- 伊藤さんも含めそれによって傷ついた人が出てしまっていることが残念でなりません
- せめてもの希望として筆者はこの論争がドキュメンタリーの未来に実りをもたらすことを願っている