■ 1. 騒動の経緯とエラッタ
- 図1.3をめぐる指摘:
- 山口慎太郎氏に批判的な人が集まり、『子育て支援の経済学』(2021)が改めて読まれた
- 第1章の図1.3「家族関係社会支出が高い国ほど出生率も高い」に不整合が指摘された
- 注釈の説明に反して韓国とイスラエルが落ちている、という内容だった
- エラッタの妥当性:
- 著者・出版社側がデータ照合の誤りを認めエラッタを出した
- このエラッタの説明が妥当であることは、エラッタが出る前に私自身も確認している
- 欠陥の程度:
- このグラフ自体は結論を言うための根拠に使っていない
- 前後で撤回するような欠陥ではない
■ 2. 高所得国への限定というコンセプト
- 問題の図の設計:
- OECD加盟国のうち高所得にカウントされる国だけを選択してグラフが描かれている
- 隣接領域の知見:
- 人口学・家族経済学では、大局的には女性の教育水準が高いほど出生率が低いという関係が支配的
- 高所得の先進国に限った調査を行うとこの関係は弱まる
- 女性の教育水準が高いほど出生率が高いという正の関係がみられる報告例も増えている
- 背景メカニズムの候補:
- 宗教観の違い、労働集約と知的集約の違いを割り当てられる
- 社会の大多数が高等教育を受け天井効果が見えだすと、よりよい教育による所得階層向上の影響が出る
- ただしこれは階層間の違いであって社会全体といえない可能性には留意が必要
- 限定の正当性:
- 重要なのは高所得先進国に限るとそういう効果が見えるようになるということ
- 山口氏のイントロのグラフでも同じコンセプトで高所得国への限定が行われている
■ 3. イスラエル除外の含意
- 著者側の除外理由:
- イスラエルの合計特殊出生率は3.11(2017年)で、他の高所得国のおおむね1.0から1.9の範囲から大きく離れる
- 出生率の高さには宗教的・文化的な要因が強く働く
- 家族政策と出生率の関係を国際比較するうえで例外的な位置にあると判断された
- 除外という判断の性質:
- 宗教・文化的要因によって出生率が高い国を国際比較から例外として除外する判断そのものが問題
- 何を説明対象とし、何を説明対象外とするのかを決めている
■ 4. 宗教と出生率の関係
- アーミッシュという極端な例:
- 近年の大規模な人口研究では、アーミッシュ女性の合計特殊出生率は6.1と推計されている
- これは宗教だけを切り出した効果ではない
- 早婚、農村的な生活様式、避妊に対する規範、大家族を肯定する共同体文化などが複合した結果
- 周囲の北米社会が少子化する中で高出生率を維持している点は、宗教的規範と出生行動の関係を考える上で分かりやすい
- 一般的なアメリカ社会:
- Pew Research Centerによる大規模社会学調査のデータ分析がある
- 40〜59歳の成人が生涯にもうけた子供の平均は、キリスト教徒が2.2人、無宗教が1.8人だった
- 宗教的所属の違いだけでなく、宗教をどの程度重要視するかという「宗教性」の指標でも出生行動に差がみられる
- 因果関係についての留保:
- ここから直ちに宗教が出生率を上げるという因果関係が証明されるわけではない
- 宗教性は居住地、結婚年齢、所得、教育、家族観などとも結びついている
- ただし宗教規範の強さと出生率に何らかの相関があるというレベルなら、一般人口のデータから繰り返し確認されている
■ 5. 本当の疑義は研究の出発点
- 批判の核心についての私見:
- 「結論ありきの研究」という批判が問題にしている最大のポイントは個々の統計処理ではない
- むしろ研究の出発点に置かれた「高所得国に限る」という条件である
- 暗黙の前提:
- 人口学では高所得国だけに対象を限定し、女性の就業、育児支援、男女平等、住宅費などから出生率を説明する研究が多い
- そこには、先進社会で実現可能な出生率上昇策は現在の進歩的な社会規範と両立するものでなければならない、という暗黙の前提がある
- 前提がもたらす帰結:
- 宗教的規範、早婚、大家族規範、避妊に対する否定的態度などが議論の中心から外れやすい
- 実際に出生率を押し上げていたとしても、現代の高所得国では採用できない要因として扱われる
- 規範の是非とは別の問題:
- これは規範意識が出生率を上げるという主張とは別の問題
- そうした価値観を政治的に採用すべきか判断する前に、出生率にどの程度影響するのかという実証的な問いを分析対象から外してよいのかが重要
■ 6. 効果量の非対称性
- 先進国内の政策効果:
- 女性の就業支援、保育サービス、育児休業、ワーク・ライフ・バランスを充実させれば出生率が上昇するという研究は数多くある
- しかしこの政策を実行すれば出生率を人口置換水準まで戻せるといった規模の効果は示されていない
- 個々の政策の効果は比較的小さく、政策を自由に設計・実施できても出生率を0.05から0.1程度押し上げられれば御の字という程度のものが少なくない
- 規範・宗教性の効果:
- 同一社会の内部でも、アメリカの例では観察される集団差として0.4人というかなり大きな差がある
- ただし計測方法が全く違うので直接比較できるものではない
- 社会間の比較まで広げれば、人口置換水準を大きく上回る出生率を維持している社会も存在する
- これは先進国対象の政策研究ではたどり着けないと思われる
- 政策転用の限界:
- 結婚年齢、避妊行動、家族構成、居住形態、所得などと複雑に結びついており、政策への検討にそのまま使えるわけではない
- それでも到達できる出生率という点で、高所得国対象の政策研究だけでは捉えにくいほど大きい
- 現在の人口政策の歪み:
- 比較的小さな効果しか持たない政策については詳細に検討している
- 出生率に非常に大きな差を生み得る家族規範や宗教的価値観は、現代の先進国では政策的に採用できないという理由で最初から主要な政策選択肢として扱われていない
■ 7. 政策効果の時代依存性
- 無難な女性支援策:
- 現代の価値観のもとでは、女性が働きやすい環境を整える、男女の機会や所得を平等にする、といった政策を採用するのが自然
- リベラルな価値観と出生の相関:
- Pew Research CenterによるGSSの解析では、リベラルな価値観を持つ人ほど結婚しておらず子が少ないという相関が確認されている
- リベラルな人は都市部や高学歴層に多いなど、居住地、教育、所得、宗教性などの交絡要因が存在する
- 少なくとも、価値観をリベラルな方向へ変化させ女性の自立を促せば結婚や出生も自然に維持される、と単純に考えることはできない
■ 8. 男性側の反発と男女の分極
- 分極化の進行:
- 米国では若年層ほど男女の政治的分極が大きくなっていることが指摘されている
- ジェンダー平等やフェミニズムをめぐる認識にも男女差が生じている
- 日本でも女子枠などをめぐって若い男性ほど反発が強いという現象が見られる
- 因果関係への留保と時期の問題:
- これらが直ちに女性支援策によって男性が結婚しなくなるという因果関係を示すわけではない
- アメリカの研究ではミレニアル世代からZ世代で急激に乖離しており、多くの研究が対象としていない最近の時期に急速に進んでいる
■ 9. 母性保護論争と規範の非両立
- 問題の歴史性:
- 大正期の与謝野晶子と平塚らいてうによる母性保護論争も同じ対立だった
- 女性を男性と同じ一人の自立した個人として扱うべきか、母となった女性には特別な保護を与えるべきかという対立
- 現代における同時併存:
- 男女の所得や機会を平等にすべきだという規範と、男性はより多く稼いで女性や子供を養うべきだという規範が同時に女性の口から発せられる
- この二つは完全には両立しない
- 問題の所在:
- 現在問題になっているのは政策だけではなく、結婚した男女が互いに何を期待するのかという規範そのもの
- 引用された論点:
- 男女平等がインストールされた社会で、女性は普遍的「人間」というカードと「女性」というカードを時と場合に応じて切れるが、男性はできない
- このことが男性の中に、女性には様々な選択があり優遇されているという感触を喚起しているケースは多い
■ 10. 過去の知見を外挿できるのか
- 外挿の困難:
- これまで比較的「無難」と考えられてきた女性支援策の出生率への効果は、過去の経験から単純に外挿できない
- 男性側の退却インセンティブ:
- 女性の就業継続や経済的自立の支援自体は、男女平等という現在の規範から見て当然の政策
- 並行して男性側に結婚すれば経済的責任を負うべきだという伝統的規範だけが残る場合が問題
- 男性から見て結婚のコストと期待される役割が大きくなり、結婚から退却するインセンティブが生じる可能性がある
- この点はGoldinの少子化論の中心にもなっている
- 東アジアでの先行議論:
- 少子化が日本よりも格段に進んだ中国の都市部、韓国、台湾では、男女間の価値観の対立がすでに活発に議論されている
- 結婚・出産をめぐるジェンダー規範の変化も議論されている
- 結論:
- 少子化対策の効果が社会の価値観そのものの変化によって変わり得るなら、過去に相関が確認された政策を現在や将来に外挿できるのか一考する必要がある
- まして、それが研究の段階でもせいぜい出生率を0.05から0.1程度押し上げるくらいの効果であればなおさら