■ 1. 体の麻痺と心の憂鬱
- 麻痺による憂鬱:
- 体が麻痺していると心もひどく憂鬱になる
- どうにかしゃべることはできるが、将来を考えると絶望的でうつになる
- 医者・精神医学への不信:
- この状態でも医者の力を借りようとは思わない
- 外科が傷を治すのはよいが、医者に心のことはわからない
- 精神医学というものをまったく信じていない
- 朝と夜:
- 朝、日が上がらなければいいのにと思う
- 頑張って起きても、世話で大変な家内にあれこれ怒られる
- 夜は何もしなくていいので楽
■ 2. 死への意識の変化
- 死ぬのが嫌ではなくなった:
- なぜ生きているのかと思う一方、死ぬのがあまり嫌ではなくなり以前より楽になった
- 残り時間の見方:
- 80歳なので10年以内には死ぬだろうと考えている
- 2050年問題の報道を見ても、そのときには自分はもう死んでいると見るようになった
- 高齢者はこう考えてニュースを見ているのだと改めて思う
- 流されないための頑張り:
- 特に希望はないが、死の方向にばかり流されないよう頑張ろうとは思っている
■ 3. 他人嫌いと身体の衰え
- ショートステイでの過ごし方:
- 2泊3日で近くの介護施設に行ったが、人に会いたくなくて部屋にこもった
- 3日間ずっと部屋で本を読んだりテレビを見たりしていた
- 食事はまずく、自分には合わなかった
- 高齢者の集団への嫌悪:
- 食堂に10〜20人の高齢者が集まる様子を見るのが嫌で、グロテスクにすら感じる
- これは昔からのことで、他人というもの自体が嫌い
- 歩行の不自由:
- 左脚がしびれて杖か歩行器で歩いており、普通に歩ける人がとてもうらやましい
- 体重の減少:
- 倒れる前の60キロから52キロまで減り、怖いくらい
- 病院では加齢のせいにされ、80歳だからと片付けられてまともに扱われない
■ 4. 哲学塾以外にしたいことがない
- 同年代への疑問:
- この歳になって他の人は何をしているのかと思う
- 普通は哲学もしていないはず
- 哲学塾の意味:
- 哲学塾をやっているだけまだまし
- 介護施設の6畳の部屋で何もせずに死ぬのはきつい
- 哲学塾がこの先どうなるかを思うと生きる気力がなくなり、続けられるのもあと数年と考えている
- 何もしたくない:
- かつて住んでいたウィーンにも行きたくない
- 京都や奈良も新幹線に乗ることを考えるだけで嫌になり、苦労して行く価値のある場所はない
- 誰にも会いたくないし、美味しいものを食べたいとも思わない
- 編集者との面会:
- 楽しくはなく、自分の仕事としての義務だと思ってやっているだけ
- 唯一の心配:
- 家内や姉、妹が死んだら困るという心配だけはある
- 人との会話:
- こうした考えなので人が来ても話が合わず、言えばみんな嫌がるだけ
- オンラインの快適さ:
- オンラインでの会話が一番快適
- 言語だけのやりとりなので、相手から攻撃されたり殴られたりすることがない
■ 5. 「私」は体の中にいるという錯覚
- 「私」の所在:
- 「私」はこの体の中にいるという考えは錯覚であり、昔から多くの人が指摘している
- 道元と臨済:
- 道元や臨済は「吾我(個我)を捨てろ」「吾我から離れろ」と説く
- 臨済の「無位の真人」も同様の考え
- 本当の自分は体の中にはおらず、かといってほかの場所にいるわけでもない
- 理解の深まり:
- 昔は読んでも何とも思わなかったが、この数年でじわじわとわかってきた
- ただし日常的には、80年間生きてきたこの私を「私」だと思ってしまう
- 表層と深層:
- 日常的な私も「私」には違いないが、あくまで表面のことであり、深層は違う
- 普遍としての「私」:
- 「私」という言葉は一般的なもので、この言葉を理解した人が「私」になる
- つまり「私」は普遍を介している
- 身体とともに「私」はいずれ死ぬが、普遍的な「私」は死んだり生きたりしない
- カントの「超越論的統覚」:
- 「私」が世界に意味をつけているという点で上記と似ている
- 「月が昇った、日が沈んだ」も「私」がそう言っているにすぎない
- 「私」と無関係に世界があるように感じるが、「私」がなければ世界そのものがない
- ただ、なかなかそういう実感がわかないだけ
- 「自己を学ぶというは、自己を忘るるなり」:
- 道元の言葉で、この私を忘れることが真の「私」をわかることだという意味
- 本当の自分の性質:
- 「今」や「ここ」といった時間的・場所的な存在ではないので、対応する言葉がない
- キリスト教でいう神に近いもの
- 「悟りは平凡だ」:
- 鈴木大拙の言葉で、平凡とはごく普通のことを指す
- この世界の中でこの「私」だけが意識していること自体がとても不思議なこと
- 悟りとはそれに気づくだけのこと
■ 6. 言語と概念の限界
- 概念には真実がない:
- 言語を学ぶと物事を概念的に考えてしまうが、そこに真実はない
- 眼鏡の例:
- 「机の上に眼鏡がある」と言われても、実際を見なければ具体的な眼鏡や机はわからない
- それでもなんとなく理解した気になってしまう
- 逆に、目の前にある独特の眼鏡を表す言葉はない
- 言葉からの目覚め:
- 言語による理解とはそのような理解の仕方である
- 言葉と独立に物事があるという考えから目を覚ますことが必要
- 「赤い」の例:
- 「赤い」という概念自体は赤くないが、赤を表しているような気がしてしまう
- だからこそ小説が読め、「赤い服を着た女の人」と書かれればわかった気になる
- 実際に書かれているのは文字だけ
- 定義できない言葉:
- 良い・悪いといった言葉は突き詰めれば定義できない
- 死や生も同様で、心臓が動いていることを「生きている」と勝手に決めているだけ
- 心についての言葉:
- すべて物的な理解に置き換えられた、いわば「みんな嘘」
■ 7. 物自体と「わからない」という救い
- カントの「超越論的観念論」:
- 世界を構成し意味づけているのはこの「私」だという同じ発想が根本にある
- 「物自体」:
- 普通は自分が死んでも世界はそのまま残ると思い込んでいる
- しかし自分の認識を離れた世界そのものの姿を知ることはできない
- これをカントは「物自体」と呼ぶ
- わからないことの救い:
- 本当のところはまったくわからない
- 私の死後の世界も物自体もわからないということ自体が救いでもある
- 「修証一等」:
- 道元の言葉で、修は修行、証は悟りを指す
- 修行の結果として悟るのではなく、修行することがすなわち悟り
- 直観的な理解としての悟り:
- 言われてみれば簡単なことだと直観的にわかること自体が悟り
- 本当は誰もがすでに知っていること
■ 8. 西洋哲学と京都学派・禅の「無」
- 西洋哲学との違い:
- 西洋にはキリスト教とその背景のギリシャ哲学がある
- そのため向こう側に本物があり「私」はそれを写す、という議論になりがち
- 西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」:
- 京都学派の西田幾多郎は「私と世界の関係」を追求した
- 「私」と世界は絶対に違うものでありながら、同一でもある
- 論理学を無視した話に聞こえる
- 禅の「能動的無」:
- 禅は意識の働きを「無」という言葉で強調する
- 「私」はないが、意識という目に見えない作用は確かに働いている
- 形としては無でありながら、ものすごい力で世界を成り立たせている
- サルトルの『存在と無』:
- 部屋の写真には「猫がいない」と「犬がいない」の区別は写らない
- しかし人間は言葉によって不在(無)を理解できる
- 無に満ちた世界:
- 「赤くない、青くない、丸くない」と無の属性はいくらでも言える
- 私たちの世界は、目に見えない言葉の作用である無で満ちている
■ 9. 意識・記憶・脳への疑問
- 意識の不在の可能性:
- 体を動かすとき、ほとんどは体が無意識的に先に動いている
- それを後から「起き上がろうと思って起き上がった」と説明するのは本当はおかしい
- 言葉上はそう言わざるを得ないが、意識そのものがないのかもしれない
- 記憶の不思議:
- 過去の出来事は現在「もうない」はずなのに、現在思い出せるのは不思議な現象
- 世の中には記憶障害や多重人格の人もいる
- 脳への依存の痛感:
- 脳出血で身体が不自由になり、人間がいかに脳に依存しているかを痛感した
- 脳還元論への疑い:
- これだけ脳にダメージを受けても、ものを考える力そのものは失われなかった
- そこから、脳の構造がすべてだとする医学や世間の見方も所詮は嘘だとわかってきた
- 心は未解明:
- 心については本当はまだ何もわかっていない
- 脳の構造という物質の話ではなく、まったく次元の違う話
- それが腑に落ちたことで、以前よりかえって物事を考えやすくなった
■ 1. レビュー対象と全体評価
- 対象の文章:
- 前半は脳出血後の麻痺、抑うつ、他者への嫌悪、死への構えといった個人的状況を語る
- 後半は「私はこの体の中にいる」という考えを錯覚とする哲学的主張を展開する
- 道元、臨済、カント、西田、鈴木大拙、サルトルを引く語り口調のエッセイ
- 評価できる点:
- 前半の率直な自己開示は読みやすい
- 「赤い」という概念は赤くない、などの後半の具体例は平易でわかりやすい
- 全体の問題点:
- 後半は断定の強さに論証が追いついておらず、論証としての信頼性は低い
- 「私」の多義性への依存、権威論証、一人の経験からの過度な一般化、複数の自己矛盾がある
- タイトルは死への構えと「私」の幻想を結び付けるが、本文はその関係を論証していない
■ 2. 前半と後半の接続およびタイトルとの対応
- 死が嫌でなくなった理由の欠如:
- 本文は「以前よりは楽になったのかもしれません」と結果を述べるだけで理由を語らない
- 「わからないこと自体が救い」の飛躍:
- 私の死後の世界も物自体もわからないことがなぜ救いになるのか、説明がない
- 普遍的な「私」は死なないという主張との関係:
- 死への構えの変化と関係するとも読めるが、本文は明言しておらず判別できない
- 構成上の問題:
- 前半の「生きる気力もなくなってしまう」と後半の「救い」「悟り」のつながりが不明確
- 全体は二つの別々の話を並べたものにとどまる
- タイトルは本文にない因果関係を示唆しており、結論の誘導に近い
■ 3. 「私」の多義性に依存した推論
- 中心的な欠陥:
- 「私」は体の中にいない、普遍的な「私」は死なない、という中心的主張が語の多義性に依存する
- 混在する4つの「私」:
- 経験的な自己としての「80年間生きてきたこの私」
- 言語上の一般的な語として、誰でも理解すれば「私」になるもの
- 超越的・宗教的な「本当の自分」としての「無位の真人」や神に近いもの
- 認識の主体として世界を構成し意味づける、カントの「超越論的統覚」としての「私」
- 語と実体の取り違え:
- 誰でも使える語であることから、死なない実体が存在するという結論を導いている
- これは多義語の濫用であり、語と指示対象を取り違えるカテゴリーの誤りでもある
- 「私」は話し手で指す人が変わる語であり、指示対象が一つの普遍的なものになるわけではない
- 前後の食い違い:
- 「この私」を表面のこととしながら、世界を構成するのは「この私」だとしている
- どちらの「私」が世界を構成するのかが曖昧で、論証全体の基盤が不安定になる
■ 4. 思想家の引用による権威論証
- 権威論証の性格:
- 「昔からいろいろな人が言っていること」として名前と言葉を並べ、主張を正当化している
- 引用が主張をどう支えるのかは論証されていない
- 思想の安易な同一視:
- 臨済の「無位の真人」、道元の「吾我を捨てろ」、カントの「超越論的統覚」を「似ています」の一言でまとめる
- 類似点と相違点は検討されていない
- カントの扱い:
- カントは超越論的な主観と経験的な個人の自己を区別している
- 「この私」とそのまま重ねられるかは論証されていない
- サルトルの扱い:
- 示されているのは言葉によって不在を理解できるという一点のみ
- それが禅の「能動的無」と同じだという根拠はない
- 出典の欠如:
- 「能動的無」が誰の概念なのか示されていない
- 鈴木大拙の「悟りは平凡だ」にも出典がない
- 誤謬の種類:
- 似た言葉や雰囲気を根拠に別概念を同一視する不完全な帰納にあたる
- 深い思想家は皆同じことを言っているという隠れた前提に頼っている
■ 5. 西洋哲学の一般化と自己矛盾
- 過度な一般化:
- 西洋哲学全体を「向こう側に本物があって、私はそれを写す」という構図にまとめている
- 選択的事実提示:
- 直前でカントを禅と「同じ発想」として自説の支えに使っている
- 後ではサルトルも「同じような話」として引いている
- 西洋哲学を退けながら、都合のよい西洋の哲学者だけを味方として引く自己矛盾がある
- 西洋哲学の描き方は、対比を際立たせるためのストローマンに近い
■ 6. 言語批判の自己論駁と「嘘」の濫用
- 対象となる主張:
- 言語による概念的な思考には真実がなく、心についての言葉はみな嘘だとする主張
- 自己論駁:
- 言語に真実がないなら、言語で書かれたこの主張自体にも真実がない
- 「私」の議論との矛盾:
- 言語を信用しない立場と、「私」という語の一般性から結論を導くやり方が両立しない
- 「嘘」という語の濫用:
- 「赤い」という概念が赤くないという指摘自体は正しい
- それは概念と指示対象が同一でないことを示すだけで、概念が偽であることは示さない
- 同一でないことと偽であることの取り違えであり、論証の飛躍と多義語の濫用にあたる
- 生死の判定基準の単純化:
- 心臓が動いていることを「生きている」と勝手に決めているという記述は単純化しすぎている
- 脳死など実際の定義をめぐる議論を無視しており、ストローマンの傾向がある
- 具体例の有効性:
- 「眼鏡」「赤い服の女の人」の例は言語による理解の抽象性を示す例として有効
- 問題は例から「真実がない」「嘘」という強い結論へ飛ぶことにある
■ 7. 世界の存在をめぐる矛盾
- 断定と不可知の併存:
- 「私」がなければ世界そのものがないと断定している
- 一方で、認識を離れた世界の姿は知り得ず、まったくわからないとも述べている
- 矛盾の内容:
- 世界自体を知り得ないなら、「私」がなければ世界はないとも断定できない
- 知り得ないことは存在しないことの証明にならない
- 自己の立場への無自覚な偏り:
- 死後も世界は残るという思い込みへの批判は、自分自身の断定にも当てはまる
- 一方の断定だけを批判し、自分の断定は検討していない
■ 8. 意識の有無をめぐる矛盾
- 主張の不整合:
- 意識が確かに働き、ものすごい力で世界を成り立たせていると述べている
- 数段落後には、意識自体がないのかもしれないと述べ、この矛盾を調整していない
- 出典と推論の問題:
- 体が無意識的に先に動くという主張は実験研究を思わせるが、出典がない
- 意識が行為の開始に関わらないことと、意識が存在しないことは別の主張であり、論証の飛躍がある
■ 9. 脳と心についての結論
- 本文末尾の論証:
- 脳出血で脳への依存を痛感しつつ、考える力は失われなかったと述べる
- そこから脳の構造がすべてだとする医学や世間の見方は嘘だと結論している
- 不完全な帰納:
- 自分一人の経験から医学全体の見方を嘘だと結論づけている
- ストローマン:
- 医学を、脳が損傷すれば考える力がすべて失われると主張しているかのように描いている
- 損傷の部位や程度で失われる機能と残る機能があることは、心の脳依存と矛盾しない
- 段落内の自己矛盾:
- 脳への依存を痛感した同じ経験から、脳中心の見方を嘘だとしている
- 確証バイアス:
- 前半の精神医学への不信と同じ方向でだけ経験を解釈している可能性がある
- 本文はその可能性を検討していない
- 主張内の矛盾:
- 心については何もわかっていないとしながら、物質とは次元の違う話だと断定している
- 文章全体の結論が、最も根拠の弱い推論で支えられている
■ 10. 「悟り」の反証不可能性
- 反証不可能性:
- 直観的にわかること自体が悟りで誰もがすでに知っているという主張は、どんな反応も悟りに含められる
- そのため反証も検証もできない
- 「この私だけ」との不整合:
- 「この私」だけが意識していることに気づくのを悟りとする点が、普遍的で非個人的な「私」と両立しない
- キリスト教の神との比較:
- 本当の自分を神に近いものとする比較には根拠や説明がない
- キリスト教と対比して西洋を一括した記述との整合性も不明確
■ 11. 前半の個人的記述の扱い
- 評価対象の限定:
- 前半は主観的な語りが中心で、論証として厳しく評価する対象ではない
- 他人が嫌い、旅行に行きたくないなどの感情や好みは、論理の欠陥として扱わない
- 主観を超えた一般化:
- 自分の感じ方から高齢者全般のニュースの見方を推し量っており、不完全な帰納にあたる
- 心のことなんてわからないという精神医学への不信には裏付けがない
- ただし本人は信念として表明しており、事実の断定ではない点は割り引いて評価する
- 後半を論証として評価する理由:
- 後半が心境の吐露として読まれるなら評価は変わりうる
- しかし「錯覚なのです」「嘘なのです」と断定しているため、論証として評価せざるを得ない
■ 12. 採点結果
- 論理構造(2/5):
- 前半と後半が接続されず、タイトルが示す関係も論じられていない
- 後半は思想家の紹介が続くだけで一つの論証になっていない
- 説得力(2/5):
- 具体例はわかりやすいが、例から強い結論へ飛び、論証の積み重ねがない
- 主張の妥当性(2/5):
- 中心的主張はどれも根拠不足か自己論駁的
- 言語による理解の抽象性の指摘など、部分的に妥当な観察はある
- 証拠の質(2/5):
- 根拠は出典のない思想家の名前と短い引用、自分一人の体験に限られる
- 具体例は説明には役立つが、強い結論を支える証拠にはならない
- 論理的健全性(1/5):
- 多義語の濫用、権威論証、ストローマン、選択的事実提示、確証バイアスなどがある
- 明確な誤謬が中心的な主張に集中している
- 内部整合性(1/5):
- 世界の存在、意識の有無、脳への依存、言語の扱い、「この私」、西洋哲学の扱いなど主要な自己矛盾が6組以上ある
- 引用・参照の扱い(2/5):
- 思想家の名前は明示されているが、出典がなく、思想の違いを無視して同一視している
- 表現・読みやすさ(4/5):
- 平易な話し言葉と身近な例で難しい概念を示す工夫があり、見出しも機能している
- ただし平易さが概念の区別の省略で成り立っている面がある
- 独自性・視点の鋭さ(3/5):
- 重い障害を負った当事者が身体経験から「私」や心身問題を語る視点には独自の価値がある
- 哲学的内容は既存思想の紹介にとどまり、経験が使われるのは誤った論証の部分に限られる
- 合計:
- 19 / 45
■ 13. 採点の妥当性の再検討
- 前半の扱い:
- 他者嫌悪、医療不信、抑うつといった主観的記述は減点せず、一般化の部分に評価を限定した
- 著者の心身の状態そのものは評価対象外とした
- 論理的健全性を1点とする理由:
- 多義語の濫用と一人の経験からの一般化、ストローマンが中心的主張を支える箇所にある
- 周辺的な瑕疵ではないため1点を維持する
- 証拠の質を1点にしない理由:
- 眼鏡、「赤い」の概念、写真に不在は写らない、という例は言語の抽象性という限定的主張には適切
- 証拠がまったくないわけではないため2点とした
- 思想家の解釈の正誤:
- 各思想家の解釈が学術的に誤りだとまでは断定しない
- 指摘するのは、同一視の根拠が示されていないことと本文内で矛盾が生じていること
- 著者がより精緻な理解を持つ可能性はあるが、書かれていない以上評価に反映しない
- 文体による割り引きの限界:
- 語り口調のエッセイに厳密な論証を求めるのは酷だという見方もありうる
- しかし断定的に主張している以上、形式を理由に論証の責任は免除できない
- 採点は甘すぎも厳しすぎもしないと結論する