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自然体で人間不信

久しぶりに衝撃を受けた増田だった。

謝る時は言い訳をしなかった。自分が悪いそれは確かだ、それでいいだろう、これ以上何を言ったら満足なんだ、そういう思考。自分が悪者になって損をすることが反省だと思っていた。

普通にそれが謝罪だと思ってた。

本人は「全て自分が背負います」と男らしさでもアピールしてるつもりなんだろうけどこんなに他人の心が分からない謝罪もない。

だから、「えっ、ダメなの?」という驚きがあった。

謝罪とは倍賞を認める契約の側面もあるがそれと同じ、いやそれ以上に相手の心に訴えかけて自分は現状をちゃんと把握しています自分たちは分かり合えますと示す行為だ。

謝られる相手だって「自分もこの失敗を防ぐために何か出来たのではないだろうか」と悩んでいるのだ。

そんな発想は全く無かったし、思いつきもしなかった。そのように思考する人間が存在することにカルチャーショックを受けた。

「お前なんて本当はどうでもいい。お前は最初から蚊帳の外だ。無関係なんだ。これは全部俺の話でお前は俺の目の前に現れた石ころにすぎない」

他人に対して、そこまでストレートに述べることはないけれど、概ねそのような認識である。だから、他人とのつき合いは常に一時的で、長期的な人間関係を築いたことは無かったし、これからもきっと無い。

いつもガミガミ叱られるので、黙って聞いたふりをするのが一番いいと学習した結果、本当に反省することも、相手を慮るという事も知らずに育った。

確かに自分もこのように育った。

もし身近にこういう人間がいたら、反省とは何か聞いてみたらいい。長い時間落ち込むことだとか不幸でいることだとか自己犠牲を発揮することだとか思っている可能性が高い。

罰を受けること、すなわち罰を受けることを容認することが反省なのだと理解していた。違うとしたら、これまでの人生とはなんだったのか。

謝罪とは倍賞を認める契約の側面もあるがそれと同じ、いやそれ以上に相手の心に訴えかけて自分は現状をちゃんと把握しています自分たちは分かり合えますと示す行為だ。

つまるところ、他者とわかり合うという原体験が無く、そのような事が可能だと認識していないということだろう。自然体で人間不信ということだ。