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アラン・ケイが描くパソコンの未来像

ーーコンピュータ技術の進歩にはめざましいものがありますが。

果たして、そうだろうか。必ずしも進歩していない部分もある。例えば、メモリのデータ転送速度はさほど高速化していない。また、マイクロプロセサも依然としてシングル・プロセサのアーキテクチャから脱却していない。これは、技術的な問題というよりも、コンピュータ・ベンダーが大きな変化を望んでいないからではないだろうか。

ーーコンピュータ・アーキテクチャの進歩は保守的だということですか。

ある種のベンチマークによれば、私たちがXerox社のパロアルト研究所(PARC)において1970年代に作ったコンピュータ・システムに対して、現在のコンピュータはわずか50倍の性能向上しか達成できていない。これは驚くべきほど小さな進歩だ。

なぜなら、この間、ムーアの法則によれば、半導体技術は3万倍~4万倍もの技術進歩を遂げている。本来なら、コンピュータの進歩も3万倍であるべきところが、実感では50倍にしか向上していない。つまり、600倍ものロスが生じている。600倍とは、どういう意味があるのか。ムーアの法則では、「半導体の技術進歩は18カ月で2倍」とされている。そして、600倍は約2の9乗(29)に相当する。つまり、1.5年おきに2倍の進化、それを9サイクル分と換算すれば、実に13年分以上の技術進歩が失われたことになる。

ーー「失われた13年」の原因はどこにあるのでしょうか。

こんなジョーク(冗談)がある。「Andy(=Intel社の長年の経営トップ、Andy Grove氏のこと)が与えしものを、Bill(=Microsoft社のBill Gates氏のこと)が奪い去った」と。私たちがPARCで実現したコンピュータは、当時の最新ハードウエアでくみ上げ、アプリケーションに最適化していた。つまり効率を重視した設計だった。今のコンピュータは必ずしも効率最優先で設計されてはいない。

特に、メモリ構成が極めて複雑になっている。マイクロプロセサ内部にもキャッシュがあれば、メイン・メモリにもキャッシュがある。さらにディスク・キャッシュも存在する。新しいコンピュータを使用したユーザーは、むしろ以前よりも性能が遅くなったと実感するときもあるだろう。

ーーこのところ、「マルチコア」と呼ぶ、1チップに複数のCPUコアを実装する技術が話題になっていますが。

マルチコアでは本質的な問題解決にならないと思う。そもそも、マルチコアの考え方そのものは、決して目新しいわけではなく、これをもってコンピュータ・アーキテクチャのパラダイム・シフトとはいえない。1970年代に実装したPARCのコンピュータでは16個以上、1960年代に実装された「Sketchpad」でも22個以上のプログラム・カレンダーが動作しており、こういう考え方がマルチコアの原型となっている。パラダイム・シフトが必要だとすれば、やはりメモリ・アーキテクチャだろう。

ーー具体的にアイデアはありますか。

コアを単純に複数にするのではなく、そのコアの近くにメモリを置く必要がある。いかに高速なメモリ・バンド幅を確保するかが大切だからだ。メモリ・バンド幅の問題を解決するアイデアとしては、何年も前に実現されたコンピュータが一つの参考になる。

例えば、「コネクション・マシン」という並列処理コンピュータや「ピクセル・プレーン」と呼ぶグラフィックス・アーキテクチャである。これらは、プロセサ・エレメントとメモリ・エレメントの距離を可能な限り近づけるという発想から、プロセサ自身にメモリを配置している。まさに真の分散アーキテクチャといえる。

これがコンピュータ・アーキテクチャの進むべき道であるとわかっていたはずだが、結果的に産業界が選んだ道はそうではなかった。驚くべきことか、ある種、必然だったのか。おそらく、プログラミング・モデルを変更しなければならないという不安から、アーキテクチャの抜本的な変更に踏み切れなかったのだろう。

ーー新しいメモリ・アーキテクチャを模索する研究開発プロジェクトはありますか。

企業の研究機関に所属する研究グループなら取り組めるだろうが、大学ではこうした研究開発を手がけにくくなっている。大規模なシステムの研究開発に取り組むのに十分な研究資金を確保しにくい。これは好ましいことではない。1960年代あるいは1970年代には、大学においてシステム・レベルの研究開発が盛んだったわけだから。

ーー期待をかけている技術はありますか。

ある研究者がハイレベルまたはローレベルにおいて、コンピュータの効率を向上させるアイデアを思いついたとする。そのアイデアを実現した際に、大きな問題が生じないか、確認する必要がある。つまり、実際にシステムを組んで検証しなければならない。そこで次の10年間、コンピュータ・アーキテクチャを変える技術として期待したいのが次世代FPGA(フィールド・プログラマブル・ゲート・アレイ)だ。

実際にハードウエアのチップ間を結線するわけではなく、プログラムによってハードウエアの新たな接続関係を定義できる。つまり、並列処理の特性に合わせて、新たな接続関係を追加することで、アーキテクチャを変幻させる。もちろん、ハードウエアそのものに比べれば性能は遅いが、それでもFPGAをうまく利用することによってシステム性能を高めることができるだろう。そんな時代が5年以内に訪れる。

ーーそのアイデアが実装されるのはサーバのような大きなコンピュータですか。

いや、パーソナルなものに組み込まれる。私自身の興味はパソコンにある。ユーザー・エクスペリエンス(experience)がどうなるのか、いやユーザー・エクスペリエンスはどうあるべきなのか。これから5年、10年という範囲でユーザー・エクスペリエンスはどう変わり得るのかを常に考えている。中でも教育用コンピュータ、特に発展途上国に向けたパソコンはどうなるのか。100米ドル・パソコンは、すばらしいコンセプトだと考えている。

コンピュータ自身が、よりアクティブになるべきだろう。今のコンピュータは、だれが使用者かを意識することがない。

ユーザーが、あなたのような大人なのか、それとも6歳の子供なのか、そんなことはお構いなしにふるまう。あなたが画面で文書を読んでいるのかどうか、画面を注視しているのかウインドウの外に気を取られているのか、あなたが何に興味をもっているのか、コンピュータはそうしたユーザーの状況を認識していない。あなたの目的が何なのかを理解しようともしない。

ユーザーの視点に立てば、コンピュータは、まだ出来の悪いツールということになる。あなたが何をしようが興味を示さない作業台(workbench)のような存在、それが現在のコンピュータだ。

コンピュータを利用して勉強しようとしている子供がいたとするなら、その子供にふさわしいユーザー・インタフェースを提供することが望ましい。子供がパソコンの前に座ったら、その子が文字を読めるかどうかを判断する。文字を読めない子供なら、コンピュータが読み方を教えてあげればいい。今のコンピュータは、使える人には便利だが、それ以外の人にとっての使いやすさが欠如している。1)より効率を高めること、2)ユーザーへの適応性を高めること、この二つの発想からコンピュータを設計するように心がけなければいけない。

インタビュー - アラン・ケイが描くパソコンの未来像(前編):ITpro

ーーデジタル技術の進歩にはめざましいものがあります。次から次へと新しいイノベーションが起こっているように見えますが。

大局的にみれば、その質問には「ノー」と答えざるを得ない。今、世の中に普及しているテクノロジーで、1980年後に発明されたものは皆無に近い。アイデアの源泉ははるか昔にある。例えば、パーソナル・コンピュータの原点も40年以上も前にさかのぼる。

「パーソナル・コンピュータ」の誕生に先駆けて、まず「パーソナル・コンピューティング」のアイデアが生まれた。1960年代に研究者のEngelbart氏が、「シャトル(マウス)」と「スケッチパッド」で操作するというパーソナル・コンピューティングの概念を明確に示している。こうしたアイデアがあったからこそ、その後の技術進歩によって、パーソナル・コンピュータが誕生したわけだ。

当時のタイムシェアリング型コンピュータは、グラフィカルなコミュニケーションに十分な性能を備えていなかった。そういう時代だけに、パーソナル・コンピューティングのアイデアは斬新だったといえる。コンピュータとグラフィカルに対話したい、それが私たちの望んだことだった。

ーー「Web2.0」という言葉に代表されるように、新たな技術革新への関心が高まっていますが。

今のWebは未熟だね。レベルがあまりに低い。1960年代に示されたコンセプトのうち、実現できていないものがたくさんある。Web関連の人たちは、何でも自分でやりたがる。過去から学ぼうとしない。過去に対する好奇心が薄いのだろう。だから、Webの技術は遅々として進歩しない。例えば、言語「Logo」のことを記述したWikipediaのページをみても、そこでLogoのプログラムを実行することさえできない。今のコンピュータは、昔の「Apple II」に比べれば1万倍も高速化しているというのに。

Webの世界を見ていると、人気のあるメインストリームの内容ほど創造性に乏しい。私はそう思う。ところが、Webも捨てたものではなく、離れ小島のようなサイトに目を向けると、少人数のとても小さいグループが画期的な活動をしているのに気付くこともある。例えば、米Cycorp社という会社は、過去20年かそこらの間に、人間の常識を利用した巨大な知識ベース・システムの構築に取り組んでいる。まだ限られた情報しか開示されていないが、50人ほどの敏腕研究者が関わっており、着実に成果を挙げているようだ。まだ穴場的な存在のプロジェクトだが、この企業の先行きは注目に値する。

ーーなぜWebの技術進歩が遅いのでしょうか。

それは、レベルの低いところにスタンダード(標準仕様)が設定されているからだろう。インターネット上に、自動化された新聞のようなサイトを実現することは、それほど難しいことではない。ただ、そこに満足してよいのだろうか。もっと、あなたがたのビジネスの役に立つような仕組みはできないのだろうか。

例えば、だれかが新たに五つの提案をしたとする。おそらくWeb関連の人はその五つをことごとく拒否するだろう。その理由として、「スタンダードを使わなければなりませんから」というに違いない。

そのスタンダードは、10年前には存在していなかったことを忘れている。新しいスタンダードは、いつでも始められるはずなのに、今では誰もが他の人たちが賛同するのを待ち続けている。だれかが始めてくれるのをみんなが待っている。そうこうするうちに、斬新なアイデアも忘れられ、消え去っていく。あるいは、そのアイデアを少しずつ動かしていくのに、10年も15年もかかってしまうのだ。世界が大きくなると何事もひどく緩慢になってしまうのかと思うとなげかわしい。

ーー技術進歩にもどかしさを感じていらっしゃるようですが、それでも、Webは確実に社会生活に浸透しています。

コンピュータの歴史は、本の歴史と酷似している。印刷機が発明される前と後で時代はどのように変わったのだろうか。印刷機の登場によって、消費者は本を所有することが可能になった。それと同時に、本を執筆し、それを多くの人に広める手段を手に入れることができた。それと同じようなことがコンピュータの歴史でも起こっている。

パーソナル・コンピュータも、かつては高価なものだったが、今では大衆化して、みんなが持てるようになった。紙でも同じような話がある。産業革命前の欧州でこんな事件があった。紙を求めて人々が争いを起こしたことがある。当時、紙は布きれから作られていた。紙を作る布きれをめぐって、人々は紛争を起こした。ところが産業革命によって、紙は木材パルプから安価に作られるようになり、争いはなくなったのだが、かつて紙はそれほど貴重品だったわけである。

ーー読者に本を届けるのには、物流という行為を伴いますが、コンピュータにはネットワーク経由でコンテンツを届けることが可能ですね。

私たちは当初から、よりリアルな対話を実現し、「これぞ自分の道具」だと思い込めるツールにするためには、パーソナル・コンピュータをネットワークにつなぐ必要があると考えていた。私たちのコンセプトでは、パーソナル・コンピュータはスタンドアロンであってはならなかった。インターネットとパーソナル・コンピュータは同じ発想から生まれたものといってよい。実際、こうしたアイデアを背景に、Xerox社のPARCで(1983年に)Ethernetが誕生したのである。

ーーアラン・ケイさんご自身は、パソコンで本を読みたいと思いますか。

じっくり読みたいものはほとんど印刷する。だから、パーソナル・コンピュータは、まだ本を代替できない。私は一日のうち、ほとんどの時間、おそらく2/3くらいはコンピュータに向き合っている。そのうち1/3は電子メールのやりとり、あとの時間は、コンピュータで何かを作ったりする。ただ、じっくり読もうとか、何かを学ぼうとする際には、必ず印刷行為を伴う。印刷の必然性を感じないコンピュータができたら、どれほど望ましいことか。

ただ、将来は変わるかもしれない。現在のコンピュータ画面は、読書に不向きだが、新しい技術開発も進んでいる。例えば、米E Ink社が開発中の電子ペーパー(ディスプレイ)を私も試用してみたが、これは紙と同じくらい読みやすい。まだ未発売の研究レベルの技術だが、2~3年もすれば、実用になると期待できる。そうなれば、読書好きの人たちの間でも、大きな変化が生まれることだろう。

インタビュー - アラン・ケイが描くパソコンの未来像(中編):ITpro

ーーいつから、子供を対象にした教育用コンピュータに興味をもつようになったのでしょうか。

私個人は、1960年代から教育用コンピュータに関心をもっている。Xerox社のパロアルト研究所(PARC)では常に、子供が利用するコンピュータとは何かを考えていた。読むことを学ぶのは、大人ではなく子供、だから子供に向けたコンピュータが大事だと思っている。今の大人たちは、モノを考える能力が欠如している。その大人に、モノの考え方を教えるよりは、子供たちから始める方が得策だと考えるからだ。

大人は、例えばコンピュータを自動的な経理処理の道具として利用する。それはコンピュータの一側面に過ぎないにも関わらず、自分が経験したことを自動化するだけの道具だと思い込んでいる。自分の発想を豊かにする創造的な道具であることを忘れている。

では、子供をめぐる環境はどうか。子供に向けたコンピュータは家庭用ゲーム機があるくらいだ。コンピュータが発明されたのは当に昔のことにも関わらず、子供を対象にした真のコンピュータがないのは嘆かわしい問題といえる。それを解決したいからこそ、100ドル・パソコンのプロジェクトをスタートさせた。まだ最初の一歩だが、このアイデアを追いかけようとする人も見受けられる。やがて大きなうねりとなる。

ーー大人に対しては手厳しい評価ですね。

ポップ・カルチャーに対して大きな不安を感じる。本当の目的と違うことに、新技術が使われているケースが目に付く。例えば携帯電話。昔は、いつ、どこにいても連絡が取れるように心配していたものだ。誰かのオフィスに行けば、そこに電話があることを確認して安心する。

ところが最近は、仮にオフィスや会議室に電話がなくても、だれも不安を感じない。それは携帯電話を身に付けているからだ。ところがその携帯電話をどういった目的に利用しているかといえば、瑣末な用途に使うことがほとんどになっている。重要な話を電話でするというより、強い目的があるわけでもない、些細な会話に使う比率の方が高い。技術が普及し、日常の一部になるということは、本来の重要な目的が忘れ去られることを意味するのかもしれない。

では、コンピュータの利用方法はどうか。多くの人は、コンピュータを使って何かを学ぼうとしていない。単に楽しんでいるだけだ。本来は、人がアイデアを生み出す道具として発明されたはずが、娯楽の一部になってしまっている。こうしたポップ・カルチャーは危険だ。みんなが愚か者になる恐れがある。それは基本的に無知な文化であり、過去を振り返ったり未来を見通すことなく、その場・その時だけを刹那的に体験することに忙しくなりすぎている。

ーー世の中が刹那的になっているという問題は、どうすれば解決できるでしょうか。

教育問題を解決するには、世界からテレビをなくしてしまうことだろう。現実には難しいことだが。なぜなら、たいていの親自身がテレビを見たがるし、またテレビを子供に対するベビーシッター代わりにすることを望んでいる。今の大人は、テレビを見ながら育ったので、その弊害について想像したこともないのだろう。

ーーメディアにとって重要な要素とは何でしょうか。

記述方法のない口述に基づく旧来の文化と、記述方法を備えた文化では大きな違いがある。興味深いのは、私たちが知っている先進的な文化は、記述方法を備えている。口述に基づくのは未開の地の文化といえる。では、テクノロジーの世界ではどうか。過去100年間、電話やラジオ、テレビ、携帯電話といった電子機器は、人々が「書くことによって意思を伝達すること」を避けて通れるようにしてきた。これはよくない。

(メディア論を展開した)マクルーハンは、1950年代にこう予言している。「電子によるコミュニケーションに、書くことを避ける能力が加わったとしたら、それは世界を旧文明化へと歩ませる導火線になることだろう」と。彼は、書くことを失った文化を「グローバル・ビレッジ(世界的な村落)」と呼んだが、そうなることを彼は恐れていた。私も同感だ。

ーーこのところ、日本でも若い世代の理科系離れを懸念する声が聞かれますが。

日本だけではなく、世界的な現象かもしれない。これは運命ともいえる。現在と60年前では本質的な違いがある。例えば、もしあなたが子供に、何か分解できるものを与えたとするならば、子供は喜んで分解作業に夢中になることだろう。子供は好奇心の塊だから、必ず興味を示すはず。ところが、現在のテクノロジーに目を移せば、分解できるものがあまりに少ない。子供が大好きなゲーム機も、それを分解するわけにはいかないし、パソコン自体も分解しにくい。ソフトウエアについても、分解しやすいようには設計されていない。子供には、テクノロジーの意味がさっぱりわからない。

今の世の中は、あらゆる機能が提供されている。ところがその機能を実現しているテクノロジーの断片と、その機能の関係に関する因果関係や必然性を考える機会が少なくなった。「これは、どのような仕組みで実現されているのだろうか」と問いかける人が減っている。

ーー昔は、そうした因果関係を考える機会が多かったというわけですね。

私は農場で育った。私の少年期を過ごした農場には、T型フォードが数台あった。1920年代のしろものだ。それも本物の自動車にも関わらず、たった数百個の部品でできていた。だから12歳の子供でも、週末に友達と一緒に、自動車全体を分解し、それを元通りに組み立て直すことも可能だった。

ところが現代において、そんなことはありえない。自動車には数百万個もの半導体が組み込まれている。トランスミッションのシステムも極めて複雑化している。ちょっと改造してみようと思っても、自動車の原理全体を学ぶことは容易ではない。

これは世の中の進歩にとって重大な問題だと考えている。子供たちが、大人の世界から隔離されかねない。こうしたテクノロジーへの関心が急速に冷めているのも理解できる。子供が興味をもち、自らのパワーを感じられるものがあるとすれば、家庭用ゲーム機くらいかもしれない。ところが残念なことに、ゲーム・ソフトを子供たちが記述することはない。これは憂えるべき事態だ。いずれ子供たちは大人になる。そして選挙権を得るようになり、社会に対して影響力を行使する。

こういう子供たちがそのまま大人になったとしたら、社会はまずい方向に進むのではないだろうか。だからこそ、100ドル・パソコンのコンセプトに意味がある。きちんと自分で学び、自分で考える能力をもった子供を育て上げるために。

インタビュー - アラン・ケイが描くパソコンの未来像(後編):ITpro