/note/social

まずい叱り方、良い叱り方について

「体罰は指導効果ゼロ」4つの合理的理由:PRESIDENT Online - プレジデントより

第1に、体罰やこれらの言葉は、相手がどうすれば、何を努力すれば、その状況が好転するのかがわかりにくい。情報量が少ないのである。もともと、フィードバックという考え方は、システム制御論に端を発しており、システムの状態を修正し、より適切なものにしていくための情報提供を意味していた。したがって、優れたフィードバックとそうでないフィードバックの違いは、そのフィードバックが、どれだけシステム(ここでは人)の環境適応(ここでは成長)に役に立つか、ということであり、単に現状が間違っている、または環境に適応していない、という評価を与えるだけでは意味がないのである。どう間違っているのか、またはどう適応していないのかについての情報が伴わないと意味がない。いわば、どんなにフィードバックを与えても、今の行動がどう間違っていて、それを改善するためにどういうことをしなくてはならないかを示すか、またはその人自身が改善の方法を考えるヒントを与えないと優れたフィードバックではないのである。こうした成長へのヒントが乏しいという意味で、体罰や強い言葉による叱責は、フィードバックとしての価値が極めて低い。

第2の問題点が見えてくる。それは、しばしば成果や結果に重点が置かれ、成果に至るプロセスについての関心が弱いことである。システム論において、システムや人は、小さな適応を繰り返しながら理想とされる状態に行き着くと考えられており、そのなかで改善や改良など、少しずつの向上を目指すための仕組みがフィードバックである。だが、体罰やそれに準じる叱りや叱責などはそうしたプロセスを考慮せず、結果だけを求める状況で正当化されることが多いように思う。

第3に、体罰やそれに準じる指導は、そのインパクトゆえに、その人の行動や現状に関する評価としてではなく、その人の自我や人間性そのものに関する評価だと捉えられる可能性があり、受け手に感情的な反発を生みやすい。または、体罰等を受けた人に心理的な抑圧がかかり、萎縮してしまう可能性がある。その結果、その後の受け手と送り手のコミュニケーションが阻害され、成長を妨げてしまうのである。

第4になんと言っても、体罰等は人間として尊重されていないという認識を相手に抱かせやすいという点で大きな問題がある。「尊重されていない」ということはわかりにくい概念だが、単純に言えば、人として大切にされていない、ということである。

確かに現実には、人間として大切にしたうえでの「愛のムチ」という状況もありうるのかもしれないが、それが効果をもつのは、送り手と受け手によほどの信頼関係のある場合に限られ、往々にして、教える側の独りよがりである場合が多い。今回のスポーツ界での事件でも、「私はもっと信頼されていると思っていたのに……」というような言葉が聞かれた。信頼関係が基盤にない叱責や体罰は、相手に「大切にされていない」感を起こし、そうした状況で、学習や成長は起こらない。

効果的に叱るためには4つの条件が必要だと考えられるのである。

第1が、単にその行動や状態がダメというだけではなく、改善のヒントがないといけない。叱るという行為は、相手の弱みを指摘する成長支援だが、その目的はあくまでも弱みに気づかせ、それを克服する道を考えさせることである。改善のヒントとなる示唆を与えることが大切だ。

第2に、叱ることの先にあるのは、一足飛びの成果ではなく、まず成長であることを認識しておくことである。もちろん、組織においては、究極的には成果が求められるが、叱るときに念頭におくべきなのは、相手の成長である。叱ることの効果も、成果が出たかではなく、成長したか(少しでもよくなったか)で判断する。逆に、成果を求めると、なかなか効果があがらないので、叱るほうもフラストレーションがたまり、いっそうプロセスを無視した叱り方になる。

第3に、叱る際、相手の感情に配慮することが必要である。叱り方によっては、不必要な感情の発生を招き、成長という本来の目的が達成されにくくなる。納得感の確保に心を砕く、と言ってもよい。

第4が、相手の成長を支援するという態度を失わないことである。相手を尊重するというのは具体的にやろうとすると難しい。でも、相手を成長させ、相手の弱みを改善したいという態度を維持しつつ、叱ることが大切だ。それが相手には、尊重として伝わる。