千野さんのご指摘は的を射ているし、非常に興味深いですね。
かつて「自分と恋人」を「世界全体」に肥大的に短絡させるフィクションが「セカイ系」と呼ばれましたが、 「感情」を「社会全体」に短絡させるのは、さしずめ「シャカイ系」でしょうか。
そういうわけで、自分の本意を知らずにいる(自分の目に隠蔽する)論法を身につけることが、知的訓練だとされる事態が続いてきた。しかも「自分」をすっ飛ばして「社会」をあれこれ言うことには、怒りを再生産する麻薬的快楽が伴っていた。これは想像するに、なかなかやめられないだろうね。
確かに、主語が大きなことを言うのは気分がいいものだから簡単には止められないのであるな。