/note/social

押井守監督の“企画”論 縦割り構造が崩れた映像業界で、日本の映画はどう勝負すべきか

2018年の前半に実写映画を久しぶりに1本撮った経験と、その後半にさまざまな映像を見まくって考えたことで分かったのは、映画の仕事の中身が随分と変わってきたなということです。それも、ここ数年のあいだでドラスティックに変わったといっていい。映画に関わる人間は例外なくその大きな変化の渦中にいるわけだけど――。

その変化は何かというと、これまであった映画の縦割り構造が完全にくずれて、横割りになったということ。言い方を変えると、映画が必ずしも映像の仕事の一等賞とは言えなくなった。これまではある種のヒエラルキーとして、アニメでも実写でも劇場用の長編映画をつくるのがいちばん偉いんだという意識が、僕もふくめてどこかにあったと思うんですよ。それに続いてテレビやビデオの仕事があるっていうね。それが最近はネット配信というものが加わってきて、実は一昨年ぐらいから僕のところにくる話って、ほぼ配信がらみなんです。100パーセントといってもいい。僕がその方面に向いている監督なのかはおいておくとしても、明らかに映像の発注元が変わってきた。

2018年時点でもそういう意識があったのは興味深い。

かつて映画が縦割りだった頃は、洋画や邦画、実写やアニメというふうに分かれていても、基本的に映画は小屋(映画館)で見るものであって、それより値段的にも中身的にも下がるものとしてテレビドラマやテレビアニメというものがあった。で、第3の選択肢としてオリジナルビデオがあるという今から思えばシンプルな構造だったと思う。

重ねて言うと、映画が映像の仕事の一等賞とは言えなくなった。日本で豪華につくるといっても、海外の映画には勝てないでしょう。最初から製作費の桁が違うから、普段見られないような豪華なものや、すごいアクションが見たかったら、マーベルやDCあたりのハリウッド映画を見たほうが絶対にいい。映画1本見るのは、同じお金ですから。

邦画って、そもそも金も掛けられないというのはあるにせよ、その上でわざわざ貧乏くさい演出にしたがる風潮があるの何でなんですかね。

何年か前にあるプロデューサーが言っていたのは、日本の映画で当たる可能性があるのは、「売れている原作で、売れている役者をそろえて、名のとおった監督が撮る」の三拍子がそろうことだと。「この法則しかないんだ」と言っていて、これを満たさないとプロデューサーとして仕事をしたことにならないとまで言っていた。当時は「本当かな?」と半信半疑だったけど、今は明らかに間違いだと思っている。そんな企画で山のようにつくってきて、どれだけのものが当たったのかは、これまでの数字が示しているじゃないのってさ。売れている原作のものを10本つくれば、2、3本はそこそこいくかもしれないけど、トータルで考えたときにそれはどうなのって思うんだよね。

今こそ日本でつくる映画は“企画”で勝負するべきだと思う。有名な賞をとった原作であろうが、何百万部売れた漫画であろうが関係なしに、それを小屋で見るモチベーションがお客さんにあるかないかなんです。(中略)映画館に行ってお金を払って見るんだったらこういうものを見にいきたいと、必ず選択しているはずなんです。言葉にしていないだけでね。

公開初日からAmazonプライムで見れるならそっちの方がいいのですが

そうしたお客さんのモチベーションを前提にしないで映像をつくっても上手くいくわけがないよね。映像の豪華さではハリウッド映画には絶対に勝負にならないことを誰もが分かっているし、彼らは世界を相手に商売しているわけだから。日本はまずは国内で勝負するしかなくて、しかも最近は多少増えたみたいだけど、それでも観客の数は韓国と比べても数分の一だからね。今は、話題になったから久ぶりに見にいくかという人間があらわれないかぎり、映画は絶対にヒットしないんだから。あとは映画マニアがいるだけで、実態としてはとっくマニアの世界になっているんだよ。

そして、そのマニアが性質悪くて、映画界隈に迂闊に近づきたくないという悪循環。更に言えば市井のマニアだけでなく、マニアから業界に飛び込んだようなワナビー型業界人の醜悪さというのもある。

製作費は安くていいから、もっと作品の数で勝負するべきなんです。10~20館でスタートしても当たったら自然と広がりますから。今は小屋の自由裁量権が大きいんだから、選択肢が小屋やお客さんにしかない以上、あとは作品の中身によって決めるしかなくて、でもこればかりは何がどう当たるか誰にも分からない。だから、数をつくるしかないんです。

だからこそのオンデマンド配信なのであって、何故わざわざ映画館なんぞに行かねばならないのかっていう。逆にオンデマンド配信でヒットしたら映画館で上映すればいいのでは。