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「ファクトの時代」と「当事者の物語」

これまで媒体や機会を問わず頻繁に述べてきていることではあるが、差別とは純度100%の悪意や偏見によってなされることはほとんどなく、人びとの経験則の集積であったりすることが多い。

しかしながら(フェミニストが代表的な例ではあるものの)フェミニストのみならず「自身の被害感情や不快感情の特権化」を目指す流れというのは左右の陣営・洋の東西問わず、いたるところで発生している。これはおそらく偶然ではないだろうと考えている。

エモーショナルな言説が「無謬の正義」として扱われ、社会正義の盟主として邁進してきたフェミニズムにとっては、自らの絶対的正当性を相対的正当性へとシフトさせかねない「ファクトベース」の時代にいたり、苦境に立たされることとなってしまった。ファクトとは異なる文言(日本は性犯罪大国で~、女性が世界でもっとも不幸であり~等)はこれまで「そうだそうだ!」と多くの人の共感を呼び集めてきた。しかしいまは「いや統計的事実とは異なりますが」とか「お気持ちでゴリ押ししているだけでは?」「ノイジーマイノリティー」などといった批判をも喚起することになってしまった。

故ハンス・ロスリング氏(上で紹介した『FACTFULNESS』の著者)が聞いたらきっと悲しむかもしれないが、「ファクトチェック」のさかんな時代において活発なのは、皮肉にも「お気持ちの特権化競争」なのだ。