スピン経済の歩き方:「人間ピラミッド」と「過労死」の問題点が、似ている理由 (1/5) - ITmedia ビジネスオンラインより
それにしても不思議なのは、なぜここまで日本では子どもたちにマスゲームや組体操をやらせることに執着しているのかということではないだろうか。過去を振り返ると、そこには「集団美」を苦労してつくることこそが、何者にも代え難い「教育」だという考えがあるようだ。
ちょいちょい大きな事故が起こるたびに「もうやめたら」という意見が出るのだが、そのたびに危険を上回るだけの「教育的価値」があるという声が多くなり、下火になるどころか「高層化」が進んできた。
確かに、「俺は土台なんかやりたくねえ」「重たいから上に立つ役にしてくれ」などというワガママを個々が好き勝手に言い出したら「人間ピラミッド」は成功しない。頭をふんずけられても、背中に激痛が走ろうとも、「みんなのため」に歯をくいしばることが善であり、社会というのはそういうものだということを学ぶのである。
これは分かりやすく言ってしまうと、体の痛みをもって、「秩序」というものを叩き込まれているわけだ。
では、このような教育を施された子どもたちが大人になると、どのような社会をつくられるのか。普通に考えれば、「社会と集団への貢献」をなによりも重視し、個性はもちろんのこと、組織存続のためには、個の命を投げ出すことも厭(いと)わない軍隊的な社会になる。
もうお分かりだろう。「人間ピラミッド」が近年8段、9段と高層化しているというのは、猛烈なブラック社会を前に子どもたちが尻込みをして逃げ出さぬよう、いままで以上に「社会と集団の貢献」を厳しくしつけをしているともとれるのだ。
陰謀論めいているし、実際に誰かがそのような意図を持って号令をかけているわけでもないはず。
つまり、日本社会はそうあるべしという暗黙的なコンセンサスが共有されているということで、むしろそちらの方が怖い。