社会学や社会学者の紡ぐ「語彙」が問題を発見することと、その「語彙」が無謬であるかどうかは別問題なのだが、しかし私たちは前者と後者の区別をしっかりとやってこなかったのかもしれない。
社会学者のもつ「語彙」は、いまやひとつの権力となっている。「問題」がつくられれば、そこに「加害者」「被害者」を同定することができるからだ。加害者には制裁を加え、被害者には保護を与える――それらを決定できる力は、社会において大きな権力となる。
しかし、社会学者は「権力勾配」「非対称性」といったフレーズを用いて、純度100%の責任を持つ「だれか」をしばしば示してくれる。とても甘美な響きを持つが、しかし自分のなかにあるはずの責任を無化してしまう。他罰的な人間が、他罰的なふるまいによって疎外され孤立を深めてしまう過程を修正するどころか、「他罰的なふるまいをしてもよいのです。なぜならあなたは被害者なのだから」と愛撫する。
社会学者はAのような人の苦しみを一時的には説明して、それにより救うかもしれないが、しかしけっして幸福にはしない。苦しさを慰めるかもしれないが、自ら状況を打破するバイタリティを奪う。「私が快く過ごせるよう、周囲が、世間が、社会が変わるべきだ」という他責思考にしてしまう。AのSNSアカウントを知っているが、いまは大学時代よりももっと「不幸な世界観」で生きているようだ。