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シンカ論:㉕信じられるか?これ学者なんだぜ。

ここはどうしても公共の福祉とはなんなのかハッキリさせておかなければ、軍靴の足音が聞こえて来てしまう。

が、小宮氏と彼が代弁する「フェミニズム」は人権を侵害どころか、ただの悪影響すら無かったとしても表象を攻撃する。そういうスタンスを、フェミニズムは取っているということになる。

この2例から改めて分かることは、フェミニスト達には、ある表象が「性差別的な意味を帯びて」(小宮氏の言葉)使われているかどうかを見抜く眼力が全くない、ということである。なにしろ、ポーズが内股であれば「おしっこを我慢している」とありえないクレームを付けて来るのがフェミニストなのである。

小宮氏はもっともらしいことを言っているが、そもそもその「表象」が前提としている「女性観」をひっきりなしに見誤り続けている以上、フェミニズムの仕掛ける「炎上」に正しさがあるなどとは到底言い得ないだろう。

結論から言うと、そのとおりである。

フェミニストとは表象の性差別性のあるなしを判断する眼力に、「特に」劣っている人達の集まりなのだ。

ところで現代の社会で「この世は女性への偏見に満ちた表象で溢れ返っており、そこらじゅうの漫画やアニメやゲームや広告が常に自分達を差別している」という激しい思い込みを持っているのは、どんな人たちだろうか。

言うまでもなく、それはフェミニストなのである。

というより、そのような訂正そのものが「マンスプレイニング」(男性が女性を見下して偉そうに説明することを意味するフェミニズム用語)として嫌悪の対象なので、ますます聞く耳を持たない。

なお、本当にマンスプレイニングかどうか、本当に見下して言っているのかどうかは「見下しているに決まっている!」という確証バイアスでこちらも強化される仕組みになっている。

フェミニズムをはじめ、一部の歪んだ「反差別」運動だけがそのような特権を要求している。この不思議な特権の由来について、小宮氏はこの記事で一切説明していない。

異性の体を美しく感じることと、差別とは別の問題なのである。

また、故意に女性の身体に(同意なく)接触したり着替えを除いたりすることが「悪」として作者読者に認知されているからこそ、ラッキースケベという手法も生まれたわけである。ラッキースケベな場面を見たからといって、ラッキースケベでもなんでもない故意の性犯罪が正当化されるというのも飛躍が過ぎるであろう。