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無差別殺人犯はなぜ「一生刑務所」で万歳したか これは「加害性のある弱者」の問題だ

terakei氏の記事

暴力をふるうかもしれない。トラブルを起こすかもしれない。そのような「加害性のある弱者」は、社会が包摂するようなチャンネルがほとんど整備されていない。多くが家庭に押し付けられて不可視化される。家庭は外部に相談をしようにも、適切な機関の存在をそもそも知らなかったり、かりに知っていたとしても、相談することによる家庭環境の悪化や、地域社会からのスティグマ性によってためらったりしてしまうことも珍しくはない。

ときに、社会が包摂せず、家庭にそのリスクを押し付けて不可視化したはよいものの、ついには家庭が抱えきれなくなり、最悪の場合には刑務所が受け入れ先の役割を担ってしまうようなこともある。

新幹線無差別殺傷事件、京アニ放火事件、川崎連続殺傷事件、そしてこの「元農水次官による殺人事件」などは同じ延長線上にあり、「加害性のある弱者を、私たちは全社会的に包摂するような方法をいまだに見いだせずにいて、それどころか、どちらかといえば『包摂しない』という舵取りに向かっている」ということを図らずも示唆しているように思えた。

「あなたにはもっとふさわしい場所がある、もっとふさわしい相手がいる(ただしここではないし、私たちでもない)」――そうすれば、やさしいことばをかけた自分が、「迫害者」として後ろめたさを抱えたり傷ついたりせずに済む。

「私たちは、自分自身の快適な暮らしのために『加害性のある弱者』を包摂しないでリソースを温存する方針をとっており、その代償として最悪の場合は社会の成員のごく少数の人びとが時々犠牲になるような『ロシアン・ルーレット』を回しています」ということを、はっきりと認めなければならない。だが、そんなことをだれも口が裂けても言えない。

擬似的なスラム街が必要なのかもしれない