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白饅頭日誌:2月2日「他山の巨石」

たとえば「私はかわいそうな被害者である」という己のことばの説得力をもたせることばかりに意識が向いているときは、日常生活における不幸な出来事への感受性が高まる。それとともに、自分のことばの「力」を失わせるような出来事――この場合は幸せな・嬉しい出来事――への感受性を鈍らせる。言い換えれば、率先して不幸な出来事にばかり注目しようとしてしまうのだ。

「不幸なことばを発した人には不幸がやってくる」と言いたいわけではない。いわゆる「言霊信仰」的な話ではない。不幸なことばを発した人は、大なり小なり「自分は不幸なのだ」という信念(認知バイアスといってもよい)を強化する。その信念に基づいて世界を観測すると、訪れた幸福に気づくことは少なくなり、一方でほとんどの人が気にも留めないような小さな不幸を見逃さないようになるし、それを集めて保存するようになる。結果的に「自分は不幸なのだ」という信念が成就してしまう。自分の認知を否定するような出来事は受け入れられなくなる。先行認知にも「サンクコスト」があるからだ。

そして、こういう輩ほど声高に不幸を叫び吹聴するので周囲の人間を気疲れさせてしまう。いわゆるネガティブハラスメントというやつである。

そのような輩は可能な限り速やかに排除するべきである。