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「女」の境界線を引き直す意味-『現代思想』論文の誤読の要約が流通している件について

大変。ネットにかなりの誤読がネットに投稿されてる。何とかした方がいいよ」と研究仲間から連絡があったのは、ニューヨークから帰宅する朝のことだった。

一行目からの海外出張アピールは流石に草を禁じ得ない。

(中略)さらに核心部分で、私が書いていないことがたくさん盛り込まれていた。真摯に書かれたものであることは伝わってくるのだが、私の論文の要約だと言われたら、明らかに「違います」と言わざるを得ないものだ。

なるほどなるほど

私を「トランス差別をする研究者」ということにしたい、その結果、「差別主義者」である私の論文や発言に耳を傾けなくてもよいという状況をつくりたいひとたちがいるらしいことは認識しているのだが、フェアなやり方とは言えないとは思う。自分で責任を負う言葉を発するのではなく、専門家でない人の言葉を肯定的に紹介するのであれば、私の論文を本当に同じように読んでいると認定していいのだろうか。研究者として知りたいと思う。

でも千田先生、対立者の話はガン無視じゃないですか。

専門的な論文の内容を読むのは、意外に難しいものである。そうであればあるほど、そのような恣意的な「要約」が拡散させられるのであったら、研究者はたまったものではない。

だから一般的な論文にはアブストラクトを記載することが求められるのだが、社会学ではそういう文化は育まれなかったのが残念である。

多くのひとが「読んでいないけれど」といいながら、私の論文に書いてもないことを、悪しざまに批判するという事態は、異常ではないか。

でも千田先生、読んでもいない作品を悪しざまに批判するじゃないですか。

きちんとした要約を掲載しようと最初は考えたが、よく考えれば発売されたばかりの論考の要約を載せるのも、失礼な話である。ゆなさんの要約を紹介しつつ、それに対してコメントをする形としたい。

誰に対して失礼なのか一瞬分からなかったけど、出版社に対してということだろうか。更にタイトルでは論文となっているけど、本文では論考になってるのは何か意図するものがあるのだろうか。というか、いいから要約を掲載しろ。

いわば議論の枝葉末節のところが、なぜ本筋に来ているのかはよくわからない。(中略)私はそのような議論をしていない。

ならば何を議論していたのか明示する必要がある。弁明とはそのようなものだからである。「専門的な論文の内容を読むのは、意外に難しいものである」と逃げを打つのは研究者としては三流である。

また「「女性」とは別に「トランス女性」という線を引けばいいではないかと論じているわけです」と言うに至っては、非常な悲しみを禁じ得ない。そのようなことをしてはならないというのがこの論文の趣旨である。

本気で言っているなら査読以前に校閲が必要なのでは。

(中略)様々なトイレの可能性を論じ(論文をぜひ読んで欲しい)、

論文なのか論考なのかはっきりしてほしい。

このまとめの部分がなぜ、「女性」とは別に「トランス女性」という線を引けばいいではないかと論じているわけです、となるのか。そうしないための変革を提言しているのであるのにである。

それ以外の解釈を見出すことが困難なのですがそれは。表現が稚拙であることを開き直らないでほしい。

論文では相応のトランスに対する差別の歴史を認め、ただ仮に差別意識があったとしても、「差別意識」に問題を帰するのであれば、啓蒙と意識改革と帰結させられることを指摘している。シス女性たちの恐怖とは何であろうか。実体化して語られた恐怖はなかったはずである。私が取り上げたのは、畑野とまとさんによるトランスジェンダーについてもたれているだろう差別意識の例示である。ゆなさんは、「シス女性たちの恐怖が差別意識から出たものではないということが主張され」と書かれているが、まずシス女性たちの恐怖が何かは畑野さんの言説におけるレベルのものであり、シス女性の差別意識から出たものではない、などということは主張していない。

それ以外の解釈を見出すことが(略

何が何でも私を「トランス差別的な研究者」に仕立て上げ、黙らせたいのだという素直な心情の発露も結構だが、いったい何を達成したいのだろう。何よりも、研究者までもがこのような誤読をある意味で利用し、そのまま拡散していくことの意味は何だろうか。

文章である以上、解釈に幅が出るのは仕方ないが、そこで他人の解釈を誤読と断じるだけでは研究者としては三流である。

書かれた論文に対しては、何を言うのも自由である。しかし今回は、「書いたおかげで、研究が深められてよかった」と思わされる批判には、残念ながら何も出会えなかった。普通の場合、研究者は批判は妥当なものであれば、嬉しいものである。

それこそ千田先生の誤読なのではないか

今回ほど、論文を書く際に相談に乗ってくれた研究仲間が心強いことはなかった。また、掲載された後も多くの励ましをくださった方々、本当にどうもありがとうございました。

困ったことがあると内輪に篭ってしまう社会学者の習い性が出てしまっている。

そしてみなさんには、何かをSNSで拡散する際には、もう一度立ち止まって考えることをお願いしたい。

千田先生自身もその台詞を噛み締めて頂きたいものである。

なお、このエントリーの初期のタイトルは

「女」の境界線を引き直す意味-『現代思想』論文の虚偽の要約が流通している件について

であったことは千田先生のスタンスを見事に表していると言えよう。

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