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千田有紀の「「女」の境界線をひきなおす 「ターフ」をめぐる対立を超えて」について

私は千田の論考を読んで、やはりこれはトランス女性に対して明確に差別的であり、到底許せない差別扇動をアカデミックポストの座に就く自身の特権を活用して行っていると言わざるをえない、と判断した。

元々、トランス女性への差別を俎上に乗せる問題意識から生まれた言葉である以上、実際に起きているトランス女性への差別やそれの温床となる構造にフェミニズム全体が十全に向き合えない限りこの言葉を中傷や侮辱の言葉としてラべリングして読み手に紹介することはトランス女性による逆差別が今は起きているという現実と乖離した印象操作を行うことになる。

なぜならトランス女性は女性であり、女性への差別に加担する連中をそもそもフェミニストとして扱うことはフェミニズムへの誤解を生み、かつトランス差別を軽く見ることに繋がるからである。一連のフェミニストを名乗るトランス差別者の一群については「偽フェミニスト暴力集団」とでも呼んでおきたい)。

そもそもシスジェンダーの学生であればトイレ問題で工夫する必要は病気や障がいという事情がなければ基本的にはあまりないはずで、トランスの学生が各自で工夫して対処することを強いられている時点で大学という場所がトランス差別的な空間なのである。

これは確かに。

さらに千田は不要な争いは終わらせたいと述べるが、いかなる立場で争いを終わらせたいのだろうか?

自分のポジションを曖昧なままにするのが社会学者の悪いクセである。

同性同士ならば同じ湯でも大丈夫という考えのもとで設計されてきた点を問い直す必要がトランス女性の入浴問題を考えるにあたり求められてくるはずだが、この点まで千田は踏み込まず、自らが話題化したテーマであるにも関わらず、「争いを深め、不要な対立をあおる風呂について語ることが、生産的だとは思えない。もうこの風呂の話は、終了したらいいのではないか」と書いて、議論を中途で放棄してしまっている。千田自身、風呂の問題がトランス差別を巡る大きな論点だとしながらもこのような態度を取るのでは真剣さを疑わざるをえない。

社会学者特有のフニャフニャしたことを言って結論を曖昧にさせつつ、読者には一定の示唆だけを残すやり口、本当にやめるべきだと思う。

千田の論考を読むと、風呂の話題をしていたと思うと、急に論の展開をやめたり、スポーツの話題をしたかと思うとこれも半端な段階でやめて次の話題に移るのが見て取れる。これは千田自身の考えが煮詰まらぬまま論を書いたことの証左に他ならない。

その割に文字数がどうのこうのと言い訳を始めるのが千田先生。

また、千田はいわゆるTERFについて、自分の知る限り差別意識を持つ者はいない、と述べて擁護する立場に立っている。千田の言い分だとではあのTwitter上でのおびただしい差別言説はではどうなんだ、ということが全く説明できない。実質的にトランス差別がなかったことにされているのである。しかも論拠が自分の知人にいない、ということで

観測範囲を恣意的に狭めている印象は確かにある。

最後に私から言いたいことは日本社会が差別社会であり、その状況下で起きているSNS上でのトランスフォビアに大学教員まで加担し始めたことに私たちは大いに危機感を高めていかねばならないということである。差別の根源である天皇制が未だ存続し、障がい者が集団虐殺される事件が起こり、朝鮮学校への弾圧、在日コリアンへのヘイトクライム・ヘイトスピーチ、入管当局による外国人への暴力と排斥などが行われ、書店の店頭には差別排外主義的な書籍が並び、新型コロナウイルスの問題も中国人フォビアの扇動に悪用され、山口俊之のような凶悪な性犯罪者が野放しにされ、麻生太郎のようなヘイト発言を繰り返す人間が未だ公職に就くことが許されるのがこの社会である。そのなかで生きる私たちはSNS上でのトランス女性差別が現実生活でのさらなる暴力に転化し得ること、それに抗するには何が今求められているのかを問い、考え、実践していかねばならないのだ。

お、おぅ...?